卑弥呼がいた「山島」、その山は玄界灘を見下ろしていた

                   

~ 後代の中国正史は、邪馬台国の存在を否定している ~

 

                          2020.12.29.

                         殿岡 誠一郎

魏志倭人伝によれば、邪馬台国は「山島」にあった。この「山島」こそが、倭人伝のキーワードであった。このキーワードをもとに、邪馬台国探求の旅が始まる。邪馬台国は、この九州の北部沿岸にある“山”の麓にあったのだ。しかも、倭人伝にいう邪馬台国は、後世の正史からは否定され、正しくは、邪馬台という地に都を置く、倭国の誤りだった。

中国歴代の正史は、各時代の日本の都の所在地を示していた。外交関係を結ぶためには必須の情報であるから当然であるが、それのみにとどまらず、中国の史書は、日本の歴史をその時代、時代の現代史として、一貫して化石のように保存していた。そうした性格を持つ中国の史書は、次のようなことを、明確に示している。

  • まず、「邪馬台」の読みは、「やまと」であり、これが後の「大和」につながる。「やまたい」と読んだことが混迷の根源
  • 倭人の国名に注目すると、後漢書では倭国、次の倭人伝では邪馬台国(及び倭国)となっている。しかし後の各史書では、再び倭国(及び日本)である。こうした違いは、倭人伝が、誤って都の地名を国名としたためである。実際に中国の使者が訪れたのは、邪馬台という地に都を置く、倭国だった
  • 後世の正史は、しきりに、大和政権のルーツは倭国であると強調している。決して邪馬台国には言及することはなく、無視している
  • 倭人は「山島」に依るとしていたが、倭人の国が九州から大和に移ると、単に「島」と表記される。本州(近畿地方)には、特徴的な山がないからである
  • 倭人の「山島」、その“山”の名は、玄界灘を見下ろす、背振山地である
  • 壱岐から玄界灘を南下し、背振山地の威容を誰でも体感できる定期航路がある
  • 岩石が火を吐くという、中国人にとって恐らくは未知な山である阿蘇山は、後の「隋書」で報告される。それまでは、中国人の知識は九州の北岸に局限されていた
  • 1万2千余里は、楽浪から邪馬台国までの距離である。これは、中国の各史書で一貫している。ただ、倭人伝においてだけは、わかりにくい表現になっている
  • 後漢書」は、邪馬台国九州説である
  • 「山島」にあったという邪馬台国(実際には倭国)は、後の大和政権、すなわち現代日本のルーツである
  • 「大和」を「やまと」と読むのは、筑紫の「邪靡堆(やまと)」に都した「倭国」が本州に進出したことによる。その後、偉大なる倭国として「大倭」と改称して「やまと」と読み、さらに卑字を嫌って「大倭」を「大和」と改称したことによる  

  • 「日本」という現在の国号も、そのルーツは倭国にある。倭国がかつて吸収・合併した小国の国名を採用したからである
  • 日本風を意味する「和風」は、「倭風」からきている。そもそも、「和」という漢字が成立した時代に、日本という国はまだ存在していなかったから当然である
  • 「和食」、「和服」や「和モダン」、さらには、あの「大和魂」や「大和しうるわし」も、「倭国」や「邪靡堆(やまと)」がルーツなのだ
  • 天武天皇が初めて天皇という称号を定め、国号を日本と定めた。「日本の弥生時代」という言い方は、成立するのか、という意見もある
  • 天皇も公家も、当初から世襲であり、しかも、奇跡的に、それは現在進行形である
  • 日本は世界で唯一、一つの国で一つの文明を構成している、という説がある

 

主な内容:

  1. 「山」を巡る物語
  2. その「山」の名は?
  3. 国史書にみる倭国
  4. 中国使者の目的
  5. 「最終行程0」問題
  6. 現地を体験
  7. そもそもの発想:なぜ「山島」なのか
  8. 一貫していた中国の対日認識
  9. 後漢書邪馬台国九州説 ?!
  10. 後漢書倭人伝を、再び読む
  11. “和風”は“倭風”から
  12. 邪馬台は、倭国の首都の地名であった
  13. 歴代の中国正史にみる「日本」

                  後漢書三国志魏書、宋書、隋書、

                  旧唐書新唐書、宋史、元史、明史

 

 

1.「山」を巡る物語

邪馬台国へ向かう中国皇帝の使者は、対馬壱岐を経て玄界灘を南下する船上に立ち、眼前に展開される、それまでに見たこともない光景に圧倒されていた。南の空が、巨大な山塊によって、次第に覆い隠されていくからである。なんと巨大な山なのかと、大陸から来た使者はうめいた。傍に立つ邪馬台国の役人は、「我々の国、邪馬台国は、あの山のふもとにあります」と告げた・・・。

中国の史書魏志倭人伝は、その冒頭で、倭人は「山島」に住む、すなわち、邪馬台国は単なる「島」ではなく、その「山」が特徴的な「島」にある、と記している。これこそが、倭人伝の核心である。

この後、中国の使者は松浦半島に上陸し、この「山」を巡る旅を経て、目的地である邪馬台国に到る。つまり、倭人伝は「山」を示すことで邪馬台国の位置を正確に示したのである。倭人伝は、この「山」を巡る物語であった。

魏志より前の時代の史書漢書地理誌では倭人は「楽浪海中」にありとされ(夫楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云)、後漢書では、初めて、倭人は「山島」に住むとされていた。それが魏志において、その場所が初めて明確になった、というわけである。朝鮮半島から船で南に向かい、対馬壱岐を経て、あの「山」を目指しさえすれば、倭人の国へ到達できるということが明らかになった。邪馬台国は、その「山」のふもとにある。邪馬台国へ到るまでの方角も、距離も、所要日数も判明した。魏志は、中国の史書として初めて、倭人の国の場所を特定したと高らかに宣言しているのである。当時の国際情勢から、朝鮮半島の向こう側に友好的な国があることは、中国にとって外交上非常に重要であった。これでいつでも中国は使者を邪馬台国に派遣できることになる。

ただ倭人伝は、ここに出てくる「山」の名称は伝えていない。それは、このルートを辿れば、誰でもこれこそあの「山」だと気づくことができるからであろう。なお、後述するように、後の「隋書」では、初めて、中国人が恐らくは見たこともなく聞いたこともない、石が燃え、噴火する阿蘇山に触れており、ここでも、邪馬台国のある場所は九州であることを示している。すなわち、倭人伝の時点では、中国人にとっての当時の倭国に関する情報は、九州北部の玄界灘沿岸に局限されていたということだ。

もし「山島」が本州だったとしたらどうなるのか。その場合に、「山」は何という山なのか。また当時の倭国の人々が、本州は「島」であることを、すなわち津軽海峡の存在を知っていた、ということになる。はるか北の、旧唐書にいう「毛人の国」の、さらに北方にある海峡である。

 

  1. その「山」の名は?

倭人伝の著者が「山島」と書いたとき、どの山を想定していたのだろうか。

現代の日本人は、玄界灘に面した巨大な山など、そんな話は聞いたことがないかもしれない。九州で大きな山といえば、阿蘇、霧島、桜島、雲仙などが思い浮かぶ。また、九州の地図を見ても、玄界灘の周辺に高い山は見当たらない。

中国の使者が一つの山と見たのも無理はないが、その山は、実は“山”ではなく、“山々”だった。その名は、背振山地である。福岡県の西部では、佐賀県北部との県境が東西に延びているが、その県境に沿う形で背振山地は50キロメートル以上にわたって続いている。いくつもの峰々が連なるが、主峰の脊振山(標高1,055メートル)には自衛隊のレーダーサイト(元は米軍施設、現在は航空自衛隊脊振山分屯基地)がある。神功皇后が、三韓征伐の折に勧請したものと伝えられる、背振神社もあるそうだ。かつてその取り付け道路(通称:自衛隊道路)を車で登ったことがあるが、頂上付近から眼下に玄界灘を見下ろす絶景は圧巻である。

海岸から脊振山地まではごく近距離にある。特に西側の山々は海岸から数キロ程度しか離れていない。従って、この背振山地玄界灘海上の船から見ると、その高さは800~1.000メートル程度と、東京スカイツリーの約1.5倍、横の幅は50キロメートル以上、しかも福岡県側の北面は急傾斜という、屹立する巨大な山塊として出現する。大空のかなりの部分が、巨大な屏風のように立ちはだかるこの山地によって次第に覆い隠されていくのであるから、まさに奇観というしかないのである。つまり、邪馬台国の島は、まさに「山島」と表記するにふさわしいのだ。

 

  1. 国史書にみる倭国

ところで、倭国について中国歴代の正史を参照すると 、日本に関する最古の記録という漢書地理誌では、「楽浪海中に倭人あり、分れて百余国」とされているのみで、「島」という記述はない。

後漢書三国志魏書、隋書、旧唐書の、それぞれの倭国に関する条では「山島」としている。

一方、旧唐書では「倭国」とは別に、「日本」の条も新たに設けられ、そこでは日本は九州ではなく、本州にあるとしている。

さらに新唐書では「倭国」の条は消滅しており、「日本」の条では、日本は元は「島」にあったが、神武(天皇)が都を九州から本州へ移したとしている(ここでは、本州が島であるかどうかについては、触れていない)。

中国側の対日認識は、歴史的に一貫していたのである。

ここで特に留意すべきことがある。倭人の国、あるいは日本国が「山島」にあるのか、あるいは「島」にあるのか、という点について、中国側にとっては、ことさらに作為的に記録すべき動機は、恐らくは、まったくなかったということである。これらを“恣意的”に改変して記録すべき理由はなかったのだ。つまり、倭人から得た、あるいは倭国を実地に見分してきた中国の使者から得た情報を、そのまま記録しているということである。いずれにしても、単なる島であるか、山島であるかに関しては、中国側にとっては単に、辺境の、東夷の野蛮な国々に関する些細な知識に過ぎないのだ、ということである。単にそれらを作為なく記しただけなのだ。

 

  1. 中国使者の目的

ところで、なぜ、中国からの使者は松浦に上陸したのだろうか。かつて、倭人伝を読む上での大きな疑問であった。

中国の使者の任務は、中国皇帝からの親書と豪華な賜わり物を卑弥呼に伝達することである。さらに、邪馬台国の実態を探るのも、使者の任務のうちである。

だからこそ、中国皇帝の使節団の一行は、対馬壱岐のそれぞれを陸路で踏破し、そして松浦半島に上陸し、倭人もほとんど通らない、不便な陸路をたどり、邪馬台国へ向かったのである。特に海岸地帯では、交通・輸送には船のほうがはるかに便利なため、道路の整備は遅れていたはずである。はるか後世の江戸時代になっても、江戸や大坂は、運河網に支えられた水運主体の都市であった。長い歴史を通じて、旅人は足で歩き、荷物は船で運ぶのが原則だった。

それにもかかわらず、中国の使者が、直接邪馬台国に向かうことなく、あえて不便な陸路を選択したのは、倭国の国情をつぶさに見聞し、それを皇帝に報告したい、ということと、中国の皇帝から邪馬台国女王卑弥呼への盛大な贈り物を、多くの倭人に披露し、皇帝の偉大さをアピールすること、という目的があったからであろう。もちろん、倭国にとっては、卑弥呼の偉大さを国内に強烈にアピールすることになる。後の江戸時代における朝鮮通信使の情景も思い浮かぶところである。もし邪馬台国が本州の大和にあったとしたら、これから一体どれほどの陸路を進むことになるのであろうか? 古田武彦氏の著書「『邪馬台国』はなかった」(角川文庫)にいうところの、「中国正統の、魏の天子に対する礼を守って、朝貢してきた倭国の忠節を賞美する、威儀正しい答礼使と、莫大な下賜品を連ねた行列」によるデモンストレーションである。

中国の使者の主たる任務は、卑弥呼に面会することである。従って、邪馬台国より先の遠いところにある国々へは、訪れることはなく、実態を見聞きすることもできない。当然、それらの国情はつまびらかにできない。距離や戸数を記せるのは、邪馬台国までで、その先の国々については、そうした記述がないのは当然である。

ところで、先に使節団の一行は、対馬壱岐のそれぞれを陸路で踏破と書いたが、この事実は、古田氏の前記著書によって知った。同書によると、倭人伝では朝鮮半島帯方郡から邪馬台国までの総距離は1万2,000余里とされているが、倭人伝に表記されている個々の区間の距離の数字を合計しても、総距離には達しない。古田氏は、対馬壱岐での陸行の距離について、従来の研究者は重要な「読み落とし」をしてきたと指摘し、倭人伝にはことさら表記されてはいないものの、それらの距離(2つの四角い島の、各2辺の距離)を加えれば、まさしく1万2,000余里になるとしている。つまり、倭人伝の著者は、これらの距離を正確に計算したうえで書いていたのである。

また、同書によると、朝鮮半島の南岸には、東から西まで、倭人の国々が連なっていたため、それらの国々の北に位置する半島人の諸国は、東西は海に面していたが、南では海ではなく倭人の諸国に接していたという。つまり、朝鮮半島と九州の間の海は、まさに倭人の世界であり、倭人たちは南北に海上を活発に行き来していたのである。かつて、任那日本府について読んだことも思い出される。

今、日本近海には、注目を集める2つの島がある。いずれも絶海の孤島(または諸島)である。絶海の孤島とは、船乗りの人間にとって、暴風雨に遭遇したときに命を守るための、貴重な島影を提供する。彼らにとっては、絶海の孤島ほど貴重な存在はない、とさえいえるのである(と、素人的には思われる)。しかし、大陸の人間には、そんな島は無価値である(と、これまた思われる)。[ここで想起されるのは、台湾近海や、東シナ海南シナ海の諸島である。これらは中国の正史にはどのように記録されているのか、知りたいものである。]

さらに後になって、大陸沿岸は日本からの倭寇に苦しめられたが、海上での有効な対処能力がない中国王朝は、効果のある海賊対策を打つことができず、日本の政権に倭寇の取り締まりを求めた。日本側は、海賊の取り締まりを行い、結果として中国には日本との貿易関係を結ぶことを受け入れさせた。

大陸諸国とは異なり、日本は、海上航海民の国なのだ。

当時の主要な交通・運搬手段は海や川を利用する船であり、特に小さな漁港が間隔をあけて連なる日本の海岸地帯で、場所によってはかなり最近までそうした状態が続いたようだ。かつて、故大橋巨泉氏がラジオで語っていた。伊豆の東海岸を外国人とドライブした時、真鶴、熱海や伊東などの間にいくつも短い有料道路が続くのはなぜかと聞かれ、昔はろくな道路がなかったからと答えたと話していたことを記憶している。実際に伊豆の東海岸を走ると、入江と入江との間は山越えになっており、陸路を行くのは車でなければかなりきつい。伊豆半島南端の下田では、急病人が出た場合、若者を集めて早舟を仕立て、病院のある熱海や伊東に患者を急送したという昔の話を読んだこともある。また、「団塊の後 三度目の日本」(堺屋太一著、毎日文庫)では、総理大臣に「都道府県の範囲は明治以来ほとんど変わっていない。徒歩と川船だけの交通運輸を前提とした都道府県は全く時代に合わない。」と言わせている。物資の大量輸送には、長い間海や川、そして運河などによる水上輸送が主流であった。後にそれにとって代わったのは鉄道による貨車輸送であった。道路によるトラック輸送の登場は、道路の整備が進んださらに後の時代である。

九州に上陸した使節が通った道は、人跡未踏のような状態と記録されているが、至極当然なのである。急坂、山道、細道、雨天のぬかるみなどは、陸上輸送にとっては、ごく最近の時代までは非常に大きな障害だったのだ。

ちなみに、古田氏の著書では、対馬について、踏破したのは南の島である、としているが、対馬の北島と南島が人工的に分離されたのははるか後世のことであって、倭人伝の時代には、対馬は細長い一つの島であった、と何かで読んだ記憶がある(バルチック艦隊対馬の北を通るのか,南を通るのか、連合艦隊がどちらにも即応できるようにしたらしい)。

なお、ある国の沿岸にある島は、すべてその国の領土であるかというと、必ずしもそうは言い切れない。実際に、フランスの大西洋沿岸にはイギリス領の島々があり、トルコの地中海沿岸にはギリシャ領の島々が数多くあり、中国沿岸には台湾領の島もある。

 

  1. 「最終行程0」問題

ところで、ここで問題が生じる。古田氏の著書にいう、「最終行程0」という問題である。行程の最終区間にあたる「不弥国-邪馬壹国」間の距離が記されておらず、当然その国間距離が「0」となることである。卑弥呼の国は、それまでに使者が通過してきた国の中でも大国であり、その国と不弥国との間の距離がない、というのは不可解である。陸続きの国同士の間で、国の中心部の間の距離は、離れているはずである。現在の糸島は、かつては島であったらしいが、現在では一部が九州本土と陸続きになっており、陸続きになっていない部分は、細長い湾になっている。この湾の両岸に2つの国があったと考えることも可能である。しかし可能性が高いのは、たとえば福岡市の西部、室見川の河口の両岸に2つの国の中心部が向かい合っていた場合である。しかしながら、現状ではそう断言することができない。最終的に邪馬台国の位置を確定するためには、倭人伝に示された距離を基準にするか、あるいは、倭人伝にいう「居処・宮室・楼観・城柵」や径百歩の大きな墳墓などの、衛星による地形の調査や、微細な土地の高低を識別できる最新のデジタル航空測量、考古学的な発掘などによるしかないのであろう。なお、奈良の箸墓古墳について、卑弥呼の墓であるという説があるようだが、この古墳は前方後円墳であり、その一部である後円部が径百歩であるというのは腑に落ちない。

 

  1. 現地を体験

この巨大な「山」に関する中国の使者の体験を、現代の我々が疑似体験するには、壱岐から呼子までの定期航路をたどってみればよい。乗り慣れた地元の乗客は船室内で横になってしまうが、船上に立って前方を見つめれば、ドラマチックな光景を目にすることができる。一度でも玄界灘を船で南下したことがあれば、この「山」の問題に気付いたはずである。机上の論だけでなく、実際に現地を踏査することの重要性を痛感させられる。

卑弥呼を共立したのは数十か国、しかるに松浦半島に上陸してから邪馬台国までに経由する国の数はわずかに数か国であり、いずれも小さな漁村程度である。もし邪馬台国が大和にあったとしたら、経由する国の数は100や200で済むのだろうか。ましてや、倭国大乱となったら、近畿から北部九州までを巻き込む大戦争があったことになってしまう。はるか後世の戦国時代でも、関ヶ原に至るまでは、個別の小さな戦いの連続と集積でしかない。

 

ここで、参考までに日本の人口の推移をみると、

 

  西暦(年)    時代 年号     人口(人)

  紀元前 5200   縄文前期      10万6000

  紀元前 4300   縄文中期      26万000

  紀元前 3300   縄文後期      16万0000

  紀元前 2900   縄文晩期       7万6000

  紀元前 1800   弥生時代      59万5000

      725   奈良時代      451万2000

      1150   平安末期      683万7000

      1600   慶長 5年     1227万3000

---------------------- (中略) -------------------------

      1873   明治 6年     3229万7000

      1890   明治23年    4131万0000

      1920   大正 9年     5596万3000

      1950   昭和25年    8389万8000

      1975   昭和50年  1億1194万0000

      1995   平成  7年  1億2557万0000

 

となっている。「人口と日本経済 長寿、イノベーション、経済成長」(吉川 洋著、中公新書)より抜粋した。

 

  1. そもそもの発想:なぜ「山島」なのか

以上のような考察を行ったきっかけは、逆転の発想からである。倭人伝を普通に読んでも邪馬台国の場所はわからない。しかし、知性も教養も備えた歴史家である著者が、邪馬台国に使いした人物の正式な報告書をもとに、正確を期して著した倭人伝には、邪馬台国の場所が正確に記録されているはずである。

古代の記録であるから、記述は不正確で、いい加減なはずであるとするべきではない。わずか十数世紀程度の時間では、人間が大して進化を遂げるわけもなく、古代人のしたことだからと見下すのは、現代人の傲慢というものである。しかもその想定される最初の読者は、ほかでもない皇帝である。

その記録の方法は、当然、当時の方法になるはずであるが、いずれにしても、そこには必要にして十分なだけの情報が含まれているはずである。もし倭人伝を正しく読み解けたとしたら、そこにはどんな光景が見えてくるだろうか。これが発想の原点となった。

また、長い文章を書く場合、その冒頭に全体の核心を的確に表現する一文を書くこともあるだろう。さらに、かつて住んでいた福岡から壱岐へ一泊旅行にでかけ、帰路に呼子までの定期航路をたどった時の、あの感動的な光景を思いあわせたとき、冒頭の「山」というキーワードに行き着いた。

現代であれば、ある場所を示すとき、地図や緯度経度などで、その場所を示すことになる。しかし当然ながら、倭人伝の場合には、そうはいかない。従って、倭人伝を読むにあたっては、当時の方法で読む必要がある。

倭人伝における場所の示し方は、方角、距離、所要日数の3要素である。ここで最も重要なものは、方角である。なぜなら、所要日数は、結局のところ距離にほかならず、従って距離、所要日数のいずれかが間違って異なった距離を示していたとしても、どちらかの距離まで行けば必ず目的地に到達できるからである。しかし方角を間違えた場合は、決して目的地に到達することはない。従って、倭人伝における方角については、確たる根拠もなしに、安易に間違いであると断定することは、非常に危険であり、絶対に避けねばならないのである。

 

  1. 一貫していた中国の対日認識

中国のその後の史書の記述を参照してみると、「大和の朝廷は、倭人伝にいう卑弥呼の国(倭国)が転じた国」、こうした中国の王朝側の対日認識が、歴史上ほぼ一貫していることがわかる。和自伝の邪馬台国は、現代日本のルーツであった。飛鳥・奈良の王朝は、筑紫にあった、古田氏のいう九州王朝の、後継王朝である。いわゆる神武東征に符合する。邪馬台国と大和王朝は同じ王朝、中国歴代の正史はそう語っているのである。

また宋史の「日本国」では、日本では国王もその臣下たちも最初から世襲で続いているのに、翻ってこの中国では唐の末期から国内は分裂し、と皇帝の太宗が嘆いている。すなわち、日本では倭国以来、最初から、連綿と王位が続いていると、中国側は認識しているのである。

現代の日本人にはそうした認識はまったくないが、かつての日本人が有していた、そして中国人に語った認識、そしてその後日本では失われてしまった認識が、中国の史書に、化石のように、奇跡的に保存されていた、ということであろう。

いわば、各時代の日本の“近・現代史”が、今に伝えられているのである。そこには“天皇”が出現する瞬間も記録されている。宋史では、(初めて)「神武天皇と号し」、九州の筑紫から大和の橿原宮に入ったとしている。

天皇”と称したのは、漢字への理解が深まり、中国皇帝の下位に位置づけられる“王”ではなく、天からの使命を託されたという意味を持つ、新たな称号が必要とされたからである。そして、この、天命を授かった皇帝を意味する“天皇”という称号の持つ、神道とも結びついた、宗教的な神聖性が、中国とは異なり、日本においては革命による政権の転覆を妨げてきたのではないだろうか。日本史上には、ついに天皇への本格的な挑戦者は出現しなかった。その神聖な血統を簒奪することはできなかったのである。

こうした視点に立てば、天孫降臨霧島連山世界文化遺産に登録された宗像大社などが九州にありながら、最高神を祀る伊勢神宮三重県にあることも、十分に納得できるのである。すなわち、九州王朝の聖地は九州にあり、大和王朝の聖地は本州にあるのだ。

さらに、倭人伝では倭人は「山島」に住むと記しているが、飛鳥・奈良の王朝の時代になると、中国の正史は倭人は「島」に住むと記している。九州王朝が大和に移り、もはや倭人の都は、あの「山」から離れてしまったからである。

かつて古田武彦氏の主要な著作を読んで、初めて邪馬台国の問題に触れ、その後、1982年に東京から福岡に転勤となり、かの地で数年を過ごした。残念ながら仕事に忙しく、邪馬台国どころではなかったが、その後も邪馬台国に関わるさまざまな論者の著作を読んできて、古田氏の説が唯一の正論であるとの考えがますます強まってきた。しかし、最近亡くなられてしまった古田氏の説に、以上のような「山」をテーマとする視点がなかったことだけは残念であると感じている。

ところで、宋史では天皇が九州王朝の時代からずっと世襲していると書いているが、驚くべきことに、この世襲は、なんと現在進行形なのである。日本という国は、天皇のもと、2000年近くも続いている国なのである。こんな例は世界で他にはない。ヨーロッパでも中国でも、歴史は王朝の興亡そのものである。

しかも、「天皇は祭祀を司り、公家は天皇家の藩屏となる」という伝統は、少なくとも精神的には、現在に引き継がれている。辞書によれば、藩屏(はんぺい)とは、「帝室を守護すること。また、そのもの」である。2016年に放送されたNHKのテレビ番組「華族 150年の旅路」(2019年 9月再放送)では、クリエーティブ・ディレクターとして活躍する近衛忠大氏が紹介されていた。近衛氏は宮中での歌会始の進行役の一人で、藤原鎌足からは1400年、五摂家の筆頭の家柄である。同氏は番組の中で、近衛家代々の菩提寺である、京都の大徳寺の一角にある近衛家専用の墓地を紹介していた。また同氏は、近衛家は陛下をお支えする家であることと、我々旧華族は皇室の藩屏という立場であるということは母親から言い聞かされてきたので、当然意識としてはある、という趣旨を述べていた。そして、実際、具体的に何ができるかというのは別問題ではあるが、少なくともそういう意識ではいる、と語っていた。つまり、公家もずっと世襲しているのである。「藤原氏---権力中枢の一族」(倉本一宏著、中公新書)によると、公家の各家は、それぞれの“家道”に特化することによって、天皇に仕えるようになったという。つまり、有職故実や華道、香道、茶道などの専門家に徹していたのだ。こうした専門知識や特技を武器にした公家の世界に、新人が新規参入することは、非現実的なことではないかと思われる。

2019年11月9日の朝日新聞(夕刊)に、天皇即位の行事の締めくくりといえる「大嘗宮の儀」に関する記事が掲載された。記事によると、旧華族の男性当主らでつくる一般社団法人「霞会館」の衣紋道研究会が、天皇・皇后や皇族の衣装の着付けを担当しているという。

また、ヨーロッパでは政治権力に対抗する勢力として、教会という宗教的権威が外部から入り、時に対立したのに対し、日本ではそのような権威はなかった。さらに日本は適度に大陸から距離があり、そのため、新しい文明は伝わるが、大陸の大国に支配されることはなかった。こうしたことが、日本のユニークさの根源ではないかと思えてならない。「文明の衝突」(サミュエル・ハンチントン著、集英社文庫)の序文で、日本は唯一、一つの国で一つの文明を構成している、と指摘しているように、「日本国と日本文明が合致している」のである。

 

  1. 後漢書邪馬台国九州説 ?!

と、ここまで記してきて、最後にいろいろと資料を見直している時、ふと、気がついたことがある。というのも、魏志よりも一時代前の史書である後漢書が、“邪馬台国九州説”であることに気づいたのだ。それによれば、中国側は、邪馬台国が九州北岸にあることを、認識していた。つまり、倭の奴国が中国に使者を送ったのだが、その奴国は、倭国の「極南界」、すなわち、朝鮮半島の南岸から九州北岸まで広がる倭人世界の最南端に位置すると記しており、このことは、中国は倭の奴国が九州北岸の近くにあると認識していたことを示している。そこに到る途上にある邪馬台国が九州北岸にあることは当然である。

さらに、後漢書では、朝鮮半島楽浪郡の国境から、倭国の最も西北にある拘邪韓国(半島の最西南端)まで七千余里、邪馬台国までは万二千里としている。この万二千里というのは、まさに倭人伝の数値とまったく同じである。すなわち、半島の中部から南端までは7,000里、邪馬台国まではその約2倍弱としているのである。地図を見れば一目瞭然、九州北岸である。倭人伝も、こうした書き方にしてくれていたら、と思われるところである。当然ながら、倭人伝は、後漢書における記述を前提に書かれている。

邪馬台国大和説など、成立し得ないのだ。

 

  1. 後漢書倭人伝を、再び読む

ここで、後漢書倭人伝を改めて読んでみると、

後漢書

  • 倭国はおよそ百余国からなり、それぞれの国に王がいる
  • 諸国の上に倭国が君臨する形をとる
  • 倭国の王である大倭王は、邪馬台国(邪馬臺国)に都を置いている
  • 倭国内は大乱となり、その間、倭王がいなかった
  • その後、諸国は卑弥呼倭王として共立した

倭人伝;

  • 投馬国から南に行くと「邪馬台国(邪馬臺国)の女王の都」に至るとしているが、「倭国の女王の都」とすべきであった。卑弥呼は、邪馬台国の女王ではない
  • 「女王国より北」などという表現も、正確ではない。女王国(=倭国)より北では、当時朝鮮半島にあった、半島人による国々を指すことになる
  • 後半部分では、倭国という国名表記が計3回現れる。これに気付けば、卑弥呼邪馬台国の女王、と誤解することはない

「及郡使倭國、皆臨津搜露」(郡使が倭国に及ぶときは、皆、港に臨んで点検照合し)

倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王」(倭国は擾乱、互いの攻伐が何年も続くに及んで一人の女性を王として共立した)

「太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬倭國」(帯方郡太守の弓遵は建中校尉の梯雋らを派遣し、詔書印綬を奉じて倭国を訪れ)

  • 倭国は男性を王としてきたが中断、大乱を経て、諸国は卑弥呼倭国の女王として共立した
  • 倭人は登場するが、「邪馬台人」は登場しない。アメリカ人(米国人)、フランス人、日本人、これらはすべて、国名+人の形である

などの点を確認できる。

なお、福岡市内西部には、「やまと」と読む地名が、団地や峠の名などに、いくつか残っているようだ。

また、最新の航空測量では、土地の起伏が精細にわかる。倭人伝によれば、卑彌呼は既に死去しており、大きな墓が作られたという。直径は百余歩(卑彌呼以死、大作家、徑百餘歩)としており、その墓を発見できるかもしれない。

 

  1. 11. “和風”は“倭風”から

和風、和食、和服、・・・。しかし、「和」という漢字には日本に関係する意味はない。漢和辞典で「和」の項をみると、最後に注記して、<和風などの場合の「和」は「倭」に由来する>などと補足で説明している例がみられる。中国で漢字が成立した時代に日本という国は存在しなかったし、日本文化というものが成立するのははるか後代のことであるから、「和」という漢字に日本に関係する意味がないのは当然である。実際、大陸側ではかなり後世まで、倭寇倭館などのように、「倭」という文字が日本を意味する文字として使われていたようだ。

隋書によれば、倭国は「邪靡堆(やまと)」に都を置いている。

また、新唐書によれば、日本はかつて九州の「築紫城」に都していたが、神武天皇が都を本州の「大和州」に移したとしている。

これらの2点を勘案すると、恐らくは、倭という国が本州に移って、新たに諸国の頂点に立った。その国名は、「偉大なる倭」という意味で「大倭」とし、その読みには、かつての都の地名である「やまと」の音をそのまま充てた。少々乱暴ではあるが、まだ漢字あるいは文字というものに対する認識が深まっていなかったことによるのかもしれない。

その後、漢字への理解が深まるなか、国名の「大倭」を、良字を使って「大和」とし、その読みには「やまと」を引き続き、そのまま充てた。また他方では、新唐書がいうように、大倭国は国名を、かつて併合した「日本」という名前の小国の名を採用して、「日本国」に改称した。 

なお、天皇という称号、および日本という国名に関しては、講談社日本の歴史シリーズのNo,00版である「『日本』とは何か」(網野 善彦著、講談社学術文庫)によれば、それを定めたのは天武天皇であり、制度化されたのは飛鳥浄御原令によるとしている、

こうして、「倭」が「和」に変えられることで、倭国風を意味していた「倭風」は「和風」となったのではないか。こう考えれば辻褄が合う気がするのである。はやりの「和モダン」も、本来は「倭モダン」であったのだ。あの「大和魂」も、ここからきていた。「大和証券」は「ダイワ証券」なのに、「戦艦大和」がなぜ「戦艦ダイワ」ではなく「戦艦ヤマト」なのか、かなり昔からのかすかな違和感がようやく薄らいだ気がする。“大和ことば”、“大和はくにのまほろば”、“大和しうるわし”といった表現も、ここに由来していたのだ。

 

  1. 邪馬台は、倭国の首都の地名であった

ここに到って考えてみると、重大な疑念を抱かざるを得ない。

「邪馬台」の読みは、「やまと」ではないのかと。

「やまたい」という国名には、邪馬台国をめぐる論争に興味を抱いた当初から、日本語として違和感を抱いていた。この国名にはどんな意味があるのか。とにかく意味不明であるとしか言いようがない。しかも、「やまたい」という国名は、倭人伝以後、中国の正史に出現しないのである。

ちなみに、卑弥呼の後、2人目の女王として擁立された少女の名は「台与」である。「台与」が「とよ」であるならば、「邪馬台」は「やまと」ではないのか。隋書では、倭国の都である邪靡堆(やまと)は、魏志倭人伝にいう邪馬臺であるとしている。中国歴代の史書の内容は、その表記が異なるのは別として、一貫しているので、「邪馬台」の読みは「やまと」でなければならない。

もし、「邪馬台」が、「やまたい」ではなく「やまと」であるならば、「邪馬台」は「大和」であることになる。これにより、多くの疑問が氷解する。魏志倭人伝のあらゆる要素が密接に関連し、さらには中国の各時代の史書に記された日本の姿が、生き生きとした意味を持って相互に繋がりあう。すなわち、魏志倭人伝は不可解な文書ではなく、首尾一貫した正確な歴史の記録文書群を構成する重要な文書として、立ち現れるのである。

思えば、日本史の流れの中で突然出現し、その後、忽然として消滅した邪馬台国は、その前にも後にも一切痕跡を残さない幻の国であった。いわば歴史を持たない国であった。ところが、倭人伝は、ほかでもない、日本のルーツにあたる国について語っていたのである。

しかも、中国の史書に登場する倭人の国名をみると

後漢書では、大倭王邪馬台国に居し、倭の奴国は倭国の極南界にあるとし、次の魏志では、倭人伝において、邪馬台国が女王の都するところとしている(倭国に関する記述もあるが、二つの国の関係は不明)。

宋書では倭国。また隋書でも倭国であり、その倭国は邪靡堆(やまと)に都し、その地は「魏志」に謂う所の邪馬臺であるとしている。

旧唐書では、倭国は、いにしえの倭の奴国であるとしている。同時に、旧唐書では、新たに日本という国名が登場し、日本はいにしえの倭の別種、あるいは日本が倭国を吸収したとしている。

次いで新唐書では、日本は、いにしえの倭の奴国であるとし、以下、新唐書、宋史、元史、明史でも、国名は日本であり、いにしえの倭の奴国であると、繰り返して注意を喚起している。倭人伝が誤って邪馬台国と報告したことを、中国の歴史家は後々まで認識していたのだ。そしてそれぞれの時代の大和政権について、政権は倭国の時代から連綿として続いていていると強調している。

後代の中国の正史は、邪馬台国を否定し、正史の修正を試みていたのだ。倭国についてのみ言及し、邪馬台国を決して引用せず、徹底的に無視している形である。中国の史家にとって、邪馬台国は存在しないのだ。

 

この間の事情を正史にみると、

隋書「倭国」:魏の時、中国に訳通す。・・・邪靡堆(やまと)に都す。即ち「魏志」に謂う所の邪馬臺なる者也。

旧唐書倭国」:倭国は、古(いにしえ)の倭の奴国也。

新唐書「日本」:日本は、古(いにしえ)の倭の奴也。

などと記されている。中国側は、常に日本を注視してきたのだ。

こうして、邪馬台国探求の旅は、一応の帰結を見たことになる。

 

ここで、参考までに「日本大百科全書」(小学館)で「大和国家」の項目をみると、

大和政権または大和朝廷ともいう。最近では、古代国家の成立を七世紀代に求める考えが増えたので、大和政権ということが多い。なお、「大和」の表記は八世紀なかば以降に使用され、それまでは「倭」「大倭」であるので、倭政権、大倭政権とも書く。また、ヤマト政権と表記することもある。

さらに、「国史大辞典」(吉川弘文館)における「大和政権」の項を参照してみると、

・「古事記」や「日本書紀」には「大和」という国名は用いられていない

畿内大和については主として「倭」「大倭」が使われている

・「大和」の国名は「大宝令」においてはなお「大倭」である

天平二年の大和国の「正税帳」は「大倭国正税帳」と記され、「大倭国」の国印が用いられた

・「養老令」に至って「大和」と表記された

・「養老令」の施行以後、ひろく「大和国」が使用されるようになる

などと説明されている。

 

  1. 歴代の中国正史にみる「日本」

ここからは、中国歴代の正史に記録された日本についてみていきたい。参照した書籍は、「倭国伝~中国正史に描かれた日本~」(全訳注、藤堂明保・竹田晃・影山輝國、講談社学術文庫)である(下線は殿岡)。

ここで、注意すべき重要な点がある。日本に関しては、それぞれの史書はすべて、原則としてそれ以前の各時代の史書を参照し、時にはそれらの記事内容に言及し、場合によっては正確ではない記述に注意を喚起しながら、それらを前提として、一貫性を確保しながら記述されているということである。中国の史書の内容、そして歴史認識は、終始一貫しているのである。

 

後漢書

「倭」

倭は、韓の東南大海の中に在り、山島に依りて居を為り、凡そ百余国あり。

・・・使駅の漢に通ずる者、三十許(ばかり)の国ありて、国ごとに皆王と称し、世世統を伝う。其の大倭王邪馬台国に居す。

楽浪郡の徼(きょう)は、其の国を去ること万二千里にして、其の西北界の、拘邪韓国を去ること七千余里なり。

建武中元二年、倭の奴国、貢を奉げて朝貢す。・・・倭国の極南界なり。光武は賜うに印綬を以ってす。

安帝の永初元年、倭国王の師升等、・・・願いて見えんことを請う。

桓・霊の間、倭国大いに乱れ、・・・一女子あり。名を卑弥呼と曰い、・・・共に立てて王と為す。

女王国より東のかた海を度(わた)ること千余里にして拘奴国に至る。皆倭種と雖(いえど)も、女王に属せず。女王国より南のかた四千余里にして朱儒国に至る。・・・朱儒より東南のかた船を行(や)ること一年にして、裸国、黒齒国に至る。、使駅の伝うる所、此に極まる。

 

◎拘邪韓国は邪馬台国の西北界にある。また、倭の奴国は、「倭国の極南界」にあるとしている。楽浪郡から邪馬台国まで1万2,000里、拘邪韓国までは7,000余里である。

 

三国志 魏書

倭人

倭人は帯方(郡)の東南、大海の中に在り、山島に依りて国邑を為る。旧(もと)百余国あり。漢の時に朝見する者有り。今、使訳の通ずる所三十国なり。

郡より倭に至るには、・・・韓国を歴て・・・其の北岸狗邪韓国に至る。・・・始めて一つの海を度り、・・・対馬国に至る。・・・

又南して一つの海を渡る。・・・一大国に至る。・・・

又一つの海を渡り、・・・末慮国に至る。・・・

・・・伊都国に到る。・・・

・・・奴国に至る。・・・

・・・不弥国に至る。・・・

・・・投馬国に至る。・・・

南して邪馬壱国に至る。女王の都する所なり、・・・

郡より女王国に至るまで、万二千余里なり。

その国、本亦た男子を以って王と為す。・・・乃ち共に一女子を立てて王と為す。名付けて卑弥呼と曰う。・・・

景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わして郡に詣らしめ、、天子に詣りて朝献せんことを求む。・・・詔書ありて・・・親魏倭王と為し、金印・紫綬を・・・銀印・青綬を・・・銅鏡百枚・・・

卑弥呼以に死し、・・・更に相誅殺す。・・・復た卑弥呼の宗女壱与、年十三なるものを立てて王と為す。国中遂に定まる。・・・

 

宋書

倭国

倭国は高驪の東南の大海中に在り、世貢職を修む。高祖の永初二年、詔して曰く、「倭の讃は、万里貢を修む、・・・

讃死して弟の珍立つ。・・・

二十年、倭国王の済、使いを遣わして奉献す。・・・

済死す。世子の興、使いを遣わして奉献せしむ。・・・

興死す、弟の武立つ。

詔して武を・・・安東大将軍・倭王に除す。

 

○隋書

倭国

倭国は、百済新羅の東南、水陸三千里に在り。大海の中に於いて、山島に依りて居る。

魏の時、中国に訳通す。・・・邪靡堆(やまと)に都す。即ち「魏志」に謂う所の邪馬臺なる者也。

女子あり、名は卑弥呼、能く鬼道を以って衆を惑わす。・・・共に立てて王と為す。・・・

・・・魏自り斉・梁に至るまで、代中国と相通ず。

開皇二十年、倭王の姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、号して阿輩雞彌(あほけみ)というもの、使いを遣わして闕に詣らしむ。・・・使者言う、

倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。・・・

・・・仏法を敬し、百済より仏経を求め得て、始めて文字有り、・・・

阿蘇山有り。其の石故無くして火起こり、天に接する者あり、・・・

新羅百済は、皆倭を以って大国にして、珍物多しと為し、並びに之を敬仰して、恒に、使いを通じて往来す。

「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云云」と。

・・・文林郎裴清を遣わして倭国に使いせしむ。百済を度り、・・・一支国に至り、又、竹斯国に至り、・・・

 

◎初めて阿蘇山に触れており、そこが九州であることを示している。

 

旧唐書

倭国

倭国は、古(いにしえ)の倭の奴国也。京師を去ること一万四千里新羅の東南、大海の中に在り。山島に依りて居(すまい)す。・・・

・・・其の王の姓は阿毎(あめ)氏、一大率を置き、諸国を検察せしむ。・・・

貞觀五年、使いを遣わして方物を献ぜしむ。・・・

 

倭国は、かつての倭の奴国であるとし、山島にあるとしている。記述には、卑弥呼の名は登場しない。

 

「日本」

日本国は、倭国の別種也。其の国、日の辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。或いは曰く、

倭国自ら其の名の雅やかならざるを悪み、改めて日本と為す」と。

或いは云う、

「日本、旧くは小国なれども、倭国の地を併せたり」と

「其の国界は東西南北各数千里にして、西界・南界は咸(みな)大海に至り、東界・北界は大山有りて限りを為す。山外は即ち毛人の国なり」と。

 

倭国が日本と改名したのか、日本という別の国が倭国を併合したのか、わからない、としている。また、日本は山島ではなく、(おそらくは)本州にあり、としている。

 

主な登場人物:朝臣真人、朝臣仲満(なかまろ)、橘逸勢、仏僧の空海

 

新唐書

「日本」

日本は、古(いにしえ)の倭の奴也。・・・新羅の東南に直(あた)りて海中に在り。島にして居す。・・・

其の王の姓は阿毎(あめ)氏、自ら言う、初主は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、彥瀲(ひこなぎさ)に至るまで凡そ三十二世、皆尊(みこと)を以って号と為し、築紫城に居す。彥瀲の子、神武立ち、更めて天皇を以って号と為し、治を大和州に徒(うつ)す。

次は綏靖と曰い、次は安寧、・・・神功を以って王と為す。

次は応神・・・

咸享元年、使いを遣わして高麗を平らげしことを賀す。後稍(ようや)く夏の音を習い、倭の名を悪(にく)みて更(あらた)めて日本と号す。使者自ら言う、

「国、日の出ずる所に近ければ、以って号と為す」と。

或いは云う、

「日本は乃(すなわ)ち小国にして、倭の并(あわ)す所と為る。故に其の号を冒(おか)す」と。

 

◎ここでは、倭国についての具体的な記述はない。かつての倭の奴国が日本となった、としている。また、日本は山島ではなく、本州にありとし、神武天皇が都を九州の築紫から大和に移した、としている。

また、中国に来た使者が、次のように説明した。日本という小国があって、倭国に併合された。その際、倭国が、日本という国名を奪って、新たに日本という国名を名乗った。

 

主な登場人物:朝臣真人粟田、阿倍仲麻呂、橘免勢、仏僧の空海

 

○宋史

「日本国」

日本国は、本(もと)倭の奴国也。自ら以(おも)えらく、其の国は日出ずる所に近しと。故に日本を以って名と為す。或いは云う、其の旧名を悪んで之を改むる也と。

其の地の東西南北は各数千里、西界は海に至り、東北の隅は、隔つるに大山を以ってす。山外は即ち毛人国なり。

雍熙元年、日本国の僧奝然、・・・本国職員令、王の年代紀各一卷を献ず。奝然、・・・姓は藤原氏、・・・以って対(こた)えて云う。

「・・・東の奥州に黄金を産し、西の別島に白銀を出だし、・・・国王は、王を以って姓と為し、伝襲して今の王に至るまで六十四世文武僚吏皆世官なり」と。

其の年代紀の記す所に云う、初めの主は天御中主(あめのみなかぬし)と号す。次は・・・次は彥瀲尊(ひこなぎさのみこと)、凡そ二十三世、並びに築紫日向宮(つくしひゅうがのみや)に都す。

彥瀲の第四子は神武天皇と号し、築紫宮自り大和州橿原宮(やまとしゅうかしはらのみや)に入居す。

・・・次は用明天皇にして、子有りて聖德太子と曰う、・・・隋の開皇中に当たり、使いを遣わし、海に泛(うか)んで中国に至り、法華經を求めしむ。

・・・次は守平(もりひら)天皇、即ち今の王也。凡そ六十四世なり。

畿內に山城・大和・河內・和泉・摂津の凡そ五州有りて、・・・

東山道に・・・上野・下野・陸奧・出羽の凡そ八州有りて、・・・

西海道筑前筑後豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩の凡そ九州有りて、・・・

按(あん)ずるに隋の開皇二十年、倭王の姓は阿每(あめ)、名は自多利思比孤(たりしひこ)、使いを遣わし書を致す。

太宗、奝然を召見し、・・・其の国王、一姓伝継にして、臣下皆世官なりと聞き、因りて歎息して宰相に謂いて曰く、

「此れ島夷耳(のみ)、乃ち世祚遐久にして、其の臣も亦た繼襲して絕えず。此れ蓋し古の道也。中国は唐の季の乱自り、宇県分裂し、・・・大臣の後をして祿位を世襲せしめんとするなり、此れ朕の心なり」と。

 

◎東海の島に住む野蛮人でしかないのに、王も臣下も最初から世襲で続いているという。翻ってこの中国では唐の末期から国内は分裂し、と皇帝が嘆いている。

 

○元史

「日本」

日本国は東海の東に在り。古(いにしえ)には倭の奴国と称す。或は云う、其の旧名を惡(にく)み、故に名を日本に改む、と。其の国、日の出ずる所に近きを以って也。

其の土疆の至る所と国王の世系及び物產風俗は、「宋史」の本伝に見ゆ。・・・

 

○明史

「日本」

日本は、古(いにしえ)の倭の奴国なり。唐の咸亨の初め、日本に改む。東海の日の出ずるところに近きを以って名づくる也。

地は海に環(とりま)かれ、惟だ東北のみ大山に限らる。五畿、七道、三島有り、・・・其の小国は數十にして、皆焉(これ)に服属す。・・・

国主は世(よよ)王を以って姓と為し、群臣も亦た世官なり。宋以前には、皆中国に通じ、朝貢絕えず、事は前史に具はる。惟だ元の世祖は、数(しばしば)使いの趙良弼を遣わし、之を招けども至らず。乃ち忻都・範文虎等に命じて、舟師十万を帥(ひき)いて、之を征せしめしも、五竜山に至りて暴風に遭い、軍尽く沒す。後、屢(しばしば)招けども至らず、元の世を終えるまで、未だ相通ぜざる也。

明興りて、高皇帝即位し、・・・諸豪亡命し、往往(しばしば)島人を糾して山東浜海の州県に入寇す。

洪武二年三月、帝、詰(なじ)るに入寇の故を以って謂う、

「宜しく朝すべくんば則ち來庭せよ,しからずんば則ち兵を修めて自ら固めよ。・・・」

日本王良懷(りょうかい、後醍醐天皇の皇子懐良親王)命を奉ぜず、復た山東を寇し、・・・

三年三月、・・・諭すに中国の威德を以ってし、詔書に其の不臣を責むる語あり。良懷曰く、

「吾が国は扶桑の東に処ると雖も、未だ嘗て中国を慕わずんばあらず。惟だ蒙古は我と等しき夷(えびす)なるに、乃ち我を臣妾にせんと欲す。我が先王、服せず。・・・水軍十万海岸に列せり。天の靈を以って、雷霆波濤(らいていはとう)、一時に軍、尽く覆える。・・・」と。

帝、表を得て慍(いか)ること甚しきも、終に蒙古の轍に鑑み、兵を加えざる也。[日本に武力を発動しなかった]

日本には故(もと)、王有り、其の下に関白と称する者ありて最も尊し。時に山城州の渠(かしら)信長を以って之と為す。・・・自ら言う、平(たいらの)秀吉、薩摩州の人の奴為りと。・・・遂に摂津の鎮守大将と為る。

初め、秀吉、・・・諸鎮の兵を徴し、中国を犯さんと欲す。・・・

之を久しうして、秀吉死し、諸(もろもろ)の倭、帆を揚げて尽く帰り、朝鮮の患(うれい)亦た平らぐ。・・・