邪馬台国は、なかった
2024.3.18.
殿岡 誠一郎
魏志倭人伝によれば、邪馬台国は「山島」にあった。この「山島」こそが、倭人伝のキーワードであった。このキーワードをもとに、邪馬台国探求の旅が始まる。邪馬台国は、九州の北部沿岸にある“山”の麓にあったのだ。しかも、倭人伝にいう邪馬台国は、後世の中国の正史からは完全に無視されている。倭人伝が邪馬台国としたのは、邪馬台という地名の誤記または誤認、だった。
一方、中国歴代の正史は、各時代の日本の都の所在地を示していた。外交関係を結ぶためには必須の情報であるから当然であるが、それにとどまらず、中国の史書は、日本の歴史をその時代、時代の現代史、あるいは近代史として、一貫して化石のように保存していた。そうした性格を持つ中国の史書により、多くのことを知ることができる。
- まず、「邪馬台」の読みは、「やまと」であり、これが後の「大和」につながる。これを「やまたい」と読んだことが、後の混迷の根源
- 倭人の国名に注目すると、後漢書と魏志倭人伝では、邪馬台国と倭国という2つの国が登場する。しかし後の正史では、邪馬台国が登場することは決してない。これは、倭人伝が、誤って倭国の都の地名を国名としたためである
- 後世の各正史は、しきりに、大和政権のルーツは倭国であると強調している。しかし、邪馬台国については、決して言及することはない
- 倭人は「山島」に依るとしていたが、倭国の都が九州から大和に移ると、単に「島」と表記される。九州には特徴的な山があったが、大和がある本州にはそうした山がないからである
- 倭人の「山島」、その“山”の名は、玄界灘を見下ろす、背振山地である
- 壱岐から玄界灘を南下し、背振山地の威容を誰でも体感できる定期航路がある
- 中国にはない、岩山が火を吐くという阿蘇山は、後の「隋書」で報告される。それまでは、中国人の知識は九州の北岸に局限されていた
- 1万2千余里は、楽浪から邪馬台国までの距離である。これは、中国の各史書で一貫している。ただ、倭人伝においてだけは、わかりにくい表現になっている
- 「後漢書」は、邪馬台国九州説である。「後漢書」は、「魏志」を参照したうえで書かれているので、「魏志」も当然九州説である
- 「山島」にあったという邪馬台国(実際には倭国)は、後の大和政権、すなわち現代日本のルーツである
- 「大和」を「やまと」と読むのは、筑紫の「邪靡堆(やまと)」に都を置いた「倭国」が本州に進出(神武東征)したことによる。その倭国は、偉大なる倭国として「大倭」と改称して、その読みは「やまと」のままとし、さらに卑字を嫌って「大倭」という表記を、「大和」と変えたことによる
- 「日本」という現在の国号も、そのルーツは倭国にある。倭国がかつて吸収・合併した小国の国名を採用したからである
- 日本風を意味する「和風」は、「倭風」からきている。「和」という漢字には、本来、日本を指す意味はない。「和」という漢字が成立した時代に、日本という国はまだ存在していなかったのであるから、当然である
- 「和食」、「和服」や「和モダン」、さらには、あの「大和魂」や「大和しうるわし」、「大和なでしこ」も、「倭国」や「邪靡堆(やまと)」がルーツなのだ
- 天皇も公家も、当初から世襲であり、しかも奇跡的に、それは現在進行形である
- 隋書では、邪馬臺が1回のみ言及される。そこでは、倭国の都は邪靡堆に置かれ、それは、魏志にいう邪馬臺のことである、と主張している。すなわち、邪靡堆は都の地名であるとし、結果として邪馬壹國という国の存在を否定し、魏志倭人伝の記述を修正しているのだ。その後、中国の正史に「邪馬臺国」が出現することは決してない。
主な内容: ページ
1.「山」を巡る物語 4
2. その「山」の名は? 5
4. 中国使者の目的 8
5. 中国人と海や島との関係、そして領土に関する意識は? 13
6. 中国と台湾との歴史的な関係はどうなっていたのか 18
7. 「最終行程0」問題 33
8. 現地を体験 34
9. そもそもの発想 :なぜ「山島」なのか 35
10. 一貫していた中国の対日認識 36
13. “和風”は“倭風”から 42
16. 歴代の中国正史にみる「倭国」、そして「日本」 52
1.「山」を巡る物語
邪馬台国へ向かう中国皇帝の使者は、対馬、壱岐を経て玄界灘を南下する船上に立ち、眼前に展開される、それまでに見たこともない光景に圧倒されていた。南の空が、巨大な山塊によって、次第に覆い隠されていくからである。なんと巨大な山なのかと、大陸から来た使者はうめいた。傍に立つ邪馬台国の役人は、「我々の国、邪馬台国は、あの山のふもとにあります」と告げた・・・。
中国の史書、魏志倭人伝は、その冒頭で、倭人は「山島」に住む、すなわち、邪馬台国は単なる「島」ではなく、その「山」が特徴的な「島」にある、と記している。これこそが、倭人伝の核心である。
この後、中国の使者は松浦半島に上陸し、この「山」を巡る旅を経て、目的地である邪馬台国に到る。つまり、倭人伝は「山」を示すことで邪馬台国の位置を正確に示したのである。倭人伝は、この「山」を巡る物語であった。
魏志より前の時代の史書、漢書地理誌では倭人は「楽浪海中」にありとされ(夫楽浪海中有倭人、分為百余国、以歳時来献見云)、後漢書では、初めて、倭人は「山島」に住むとされていた。それが魏志において、その場所が初めて明確になった、というわけである。朝鮮半島から船で南に向かい、対馬、壱岐を経て、あの「山」を目指しさえすれば、倭人の国へ到達できるということが明らかになった。邪馬台国は、その「山」のふもとにある。邪馬台国へ到るまでの方角も、距離も、所要日数も判明した。魏志は、中国の史書として初めて、倭人の国の場所を特定したと高らかに宣言しているのである。これでいつでも中国は使者を邪馬台国に派遣できることになる。
ただ倭人伝は、ここに出てくる「山」の名称は伝えていない。それは、このルートを辿れば、誰でもこれこそあの「山」だと気づくことができるからであろう。なお、後述するように、後の「隋書」では、初めて、中国人が恐らくは見たこともなく聞いたこともない、石が燃え、噴火する阿蘇山に触れており、ここでも、邪馬台国のある場所は九州北部であることを示している。すなわち、倭人伝の時点では、中国人にとっての当時の倭国に関する情報は、九州北部の玄界灘沿岸までに局限されていたということだ。
邪馬台国の時代に、出雲や吉備など、日本の他の地域に別の有力、かつ大規模な国が存在していたとしても、不思議ではない。大和に巨大遺跡があったとしても、必ずしもそれが邪馬台国であるという必然性はない。単に、北部九州とは別の地域にも、同様に有力な国家があったというだけだ。むしろ当然なくらいである。
- その「山」の名は?
倭人伝の著者が「山島」と書いたとき、どの山を想定していたのだろうか。
現代の日本人は、玄界灘に面した巨大な山など、そんな話は聞いたことがないかもしれない。九州で大きな山といえば、阿蘇、霧島、桜島、雲仙などが思い浮かぶ。また、九州の地図を見ても、玄界灘の周辺に高い山は見当たらない。
中国の使者が一つの山と見たのも無理はないが、その山は、実は“山”ではなく、“山々”だった。その名は、背振山地である。福岡県の西部では、佐賀県北部との県境が東西に延びているが、その県境に沿う形で背振山地は50キロメートル以上にわたって続いている。いくつもの峰々が連なるが、主峰の脊振山(標高1,055メートル)には自衛隊のレーダーサイト(元は米軍施設、現在は航空自衛隊脊振山分屯基地)がある。神功皇后が、三韓征伐の折に勧請したものと伝えられる、背振神社もあるそうだ。かつてその取り付け道路(通称:自衛隊道路、当時は未舗装の砂利道)を車で登ったことがあるが、頂上付近から眼下に玄界灘を見下ろす絶景は圧巻であった。
海岸から脊振山地まではごく近距離にある。特に西側の山々は海岸から数キロ程度しか離れていない。従って、この背振山地を玄界灘の海上の船から見ると、その高さは800~1,000メートル程度と、東京スカイツリーの約1.5倍、横の幅は50キロメートル以上、しかも福岡県側の北側の斜面は急傾斜という、屹立する巨大な山塊として出現する。大空のかなりの部分が、巨大な屏風のように立ちはだかるこの山地によって次第に覆い隠されていくのであるから、まさに奇観というしかないのである。つまり、邪馬台国の島は、まさに「山島」と表記するにふさわしいのだ。
ちなみに、同様に平地にそびえる、関東平野の筑波山の標高は877メートルである。この山から数キロと離れない地点に立ち、これよりも高い山々が延々と連なる様子を想像すれば、海上から見た背振山地がどのように見えるのか、そのインパクトを実感できるかもしれない。
ところで、倭国について中国歴代の正史を参照すると、日本に関する最古の記録という漢書地理誌では、「楽浪海中に倭人あり、分れて百余国」とされているのみで、「島」という記述はない。
後漢書、三国志魏書、隋書、旧唐書の、それぞれの倭国に関する条では「山島」としている。
一方、旧唐書では「倭国」とは別に、「日本」の条も新たに設けられ、そこでは日本は九州ではなく、本州にあるとしている。
さらに新唐書では「倭国」の条は消滅しており、「日本」の条では、日本は元は「島」にあったが、神武(天皇)が都を九州から本州へ移したとしている(ここでは、本州が島であるかどうかについては、触れていない)。
中国側の対日認識は、歴史的に一貫していたのである。
ここで特に留意すべきことがある。倭人の国、あるいは日本国が「山島」にあるのか、あるいは「島」にあるのか、という点について、中国側にとっては、ことさらに作為的に記録すべき動機は、恐らくは、まったくなかったということである。これらを“恣意的”に改変して記録すべき理由はなかったのだ。つまり、倭人から得た、あるいは倭国を実地に見分してきた中国の使者から得た情報を、そのまま記録しているということである。単に見聞きしたままを、作為なく記しただけなのだ。
- 中国使者の目的
ところで、なぜ、中国からの使者は邪馬台国に直行せず、九州北岸の松浦に上陸したのだろうか。かつて、倭人伝を読む上での大きな疑問であった。
中国の使者の任務は、中国皇帝からの親書と豪華な賜わり物を卑弥呼に伝達することである。さらに、邪馬台国の実態を探るのも、使者の任務のうちであろう。
だからこそ、中国皇帝の使節団の一行は、対馬、壱岐のそれぞれを陸路で踏破し、そして松浦半島に上陸し、倭人もほとんど通らない不便な陸路をたどり、いくつもの国を経由しつつ、邪馬台国へ向かったのである。特に海岸地帯では、交通・輸送には船のほうがはるかに便利なため、道路の整備は遅れていたはずである。長い歴史を通じて、旅人は足で歩き、荷物は船で運ぶのが原則だったのではないか。
それにもかかわらず、中国の使者が、直接海路で邪馬台国に向かうことなく、あえて不便な陸路を選択したのは、倭国の国情をつぶさに見聞し、それを皇帝に報告する、ということと、中国の皇帝から邪馬台国女王卑弥呼への盛大な贈り物を、多くの倭人に披露し、皇帝の偉大さをアピールする、という目的があったからであろう。もちろん、倭国にとっては、卑弥呼の偉大さを国内に強烈にアピールすることになる。「『邪馬台国』はなかった」(古田武彦著、角川文庫)にいうところの、「中国正統の、魏の天子に対する礼を守って、朝貢してきた倭国の忠節を賞美する、威儀正しい答礼使と、莫大な下賜品を連ねた行列」によるデモンストレーションである。もし邪馬台国が本州の大和にあったとしたら、これから一体どれほどの陸路を進むことになるのであろうか?
中国の使者の主たる任務は、倭国の女王である卑弥呼に謁見することである。従って、邪馬台国より先の遠いところにある倭国内の国々へは、訪れることはなく、実態を見聞きすることもできない。当然、それらの国情はつまびらかにできない。距離や戸数を記せるのは、邪馬台国までで、その先の国々については、そうした記述がないのは当然である。
ところで、先に使節団の一行は、対馬、壱岐のそれぞれを陸路で踏破と書いたが、この事実は、古田氏の前記著書によって知った。同書によると、倭人伝では朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国までの総距離は1万2,000余里とされているが、倭人伝に表記されている個々の区間の距離の数字を合計しても、総距離には達しない。古田氏は、対馬・壱岐での陸行の距離について、従来の研究者は重要な「読み落とし」をしてきたと指摘し、倭人伝にはことさら表記されてはいないものの、それらの距離(2つの四角い島の、各2辺の距離)を加えれば、まさしく1万2,000余里になるとしている。つまり、倭人伝の著者は、中国の使者が踏破した、これらの距離を正確に計算したうえで書いていたのである。
また、同書によると、朝鮮半島の南岸には、東から西まで、倭人の国々が連なっていたため、それらの国々の北に位置する半島人の諸国は、東西は海に面していたが、南では海ではなく倭人の諸国に接していたという。つまり、朝鮮半島と九州の間の海は、まさに倭人の世界であり、倭人たちは南北に海上を活発に行き来していたのである。
ところで、近代以前の時代の主要な交通・運搬手段は海や川を利用する船であり、特に小さな漁港が間隔をあけて連なる日本の海岸地帯で、場所によってはかなり最近までそうした状態が続いたようだ。かつて大橋巨泉氏がラジオで語っていたのを記憶している。伊豆の東海岸を外国人とドライブした時、真鶴、熱海や伊東などの間にいくつも短い有料道路が続くのはなぜかと聞かれ、昔はろくな道路がなかったからと答えたと話していたことを記憶している。実際に伊豆の東海岸を走ると、入江と入江との間は山越えになっており、陸路を行くのは車でなければかなりきつい。伊豆半島南端の下田では、急病人が出た場合、若者を集めて早舟を仕立て、病院のある熱海や伊東に患者を急送したという昔の話を読んだこともある。また、「団塊の後 三度目の日本」(堺屋太一著、毎日文庫)では、総理大臣に「都道府県の範囲は明治以来ほとんど変わっていない。徒歩と川船だけの交通運輸を前提とした都道府県は全く時代に合わない」と言わせている。物資の大量輸送には、長い間海や川、そして運河などによる水上輸送が主流であった。後にそれにとって代わったのは鉄道による貨車輸送であった。道路によるトラック輸送の登場は、道路の整備が進んださらに後の時代である。
九州に上陸した使節が通った道は、人跡未踏のような状態と記録されているが、至極当然なのである。急坂、山道、細道、雨天のぬかるみなどは、陸上輸送にとっては、ごく最近の時代までは非常に大きな障害だったのだ。はるか後世の江戸時代になっても、江戸や大坂は、水運主体の都市であった。
そこでここでは、「水都 東京 ----- 地形と歴史で読みとく下町・山の手・郊外」(陣内秀信著、ちくま新書)から、水都に関する文章を採録してみたい。
「江戸が水の都市であったことはよく知られるが、鉄道や路面電車が登場した近代の東京については、陸の都市に変化したと考えられがちである。だが実は、江戸を受けついだ明治の東京は、多くの川や運河をもつ水の都市であり続けた。舟運の重要性も、近代になってもずっと変わらなかった。むしろ、近代には動力船ができ、速度も輸送量も増えたのだ。昭和の初期になっても、東京にとって水の空間は依然重要で、行き交う船の数も多かった。
江戸から東京への転換を見れば、「水運(舟運)から陸運へ」という大きな変化はあるものの、重要なのは、文明開化以後の近代になっても、そして昭和の時代になっても、水上交通が依然活発であったという点である。
水の都市の性格が失われたのは、第二次大戦以後のことであり、水上交通をすっかり捨て去ったのは、一九六四年のオリンピックを迎える直前の時期以降のことだった。」
さらに同書からは、江戸が水都であった時代の様子を活写した文章を紹介したい。
「ヴェネツィアと東京が似ていることを初めて指摘したのは、幕末(一八六二~六四年)の日本にスイスの外交使節団の団長としてやってきたエーメ・アンベールだった。江戸の隅田川沿いを見て回ったアンベールは、その平和な雰囲気に満ち人々の活気のあふれる美しい水の空間を高く評価した上で、それを世界の他の場所で求めるとすれば、アドリア海の女王、すなわちヴェネツィアの岸辺や広場しかないだろうと書き残している。」
「コンドルのもとで建築を学び日本のアーキテクト第一世代の一人となった辰野金吾(一八五四~一九一九)が、その師の教えをさらに発展させるような見事なヴェネツィア風の建築を、一八八八年四月、東京のメインカナル、日本橋川に面する一画に創り出した。これが、日本の財界の創設者とも言うべき渋沢栄一の自邸だった。」
「この渋沢栄一邸は、東京をヴェネツィアのような国際交易都市にしようと夢見た渋沢が、イギリス留学から戻ったばかりの辰野金吾に依頼して実現した建築で、まさに「水の都」ヴェネツィア風に水の側に正面を向けて開放的なつくりを見せていた。」
「青年芸術家たちのヴェネツィアへの思いを搔き立てていた渋沢邸が関東大震災で失われた後、それに替わって登場したのが「日証館」(旧東京株式取引所貸しビルディング)の建築で、やはり近代東京の水辺を飾るきわめて興味深い作品である。」
また、同じく陣内秀信氏の著書である「東京の空間人類学」(ちくま学芸文庫)では、その第II章の冒頭で、
「今ではすっかり忘れ去られているが、東京の下町は、イタリアのヴェネツィアにもたとえられるほどの魅力に富んだ水の都だった。水辺の美しさは、広重をはじめとする浮世絵師のしばしば好んで描くところであった。護岸をカミソリ堤防で固められ、高速道路が水の上を駆け抜ける現代の有様からは想像もつかぬほど、東京の水辺は豊かな都市空間を誇っていた。こうした水辺は、近代化のなかでその姿を変えながらも、東京オリンピックの前までは都市のなかで最も美しい景観をとどめていたのである。」
と記すとともに、「兜町の渋沢栄一邸」とする写真を掲載(170ページ)している。
また、この渋沢栄一邸については、版画家の作品も残されていた。「江戸切絵図散歩」(池波正太郎著、新潮文庫)の第五章「日本橋」で、
「明治の天才版画家・井上安治に〖鎧橋遠景〗の一枚がある。夜空に月が浮いた川面に、『大渠に面せる伊国ベネチアのゴート式建築は水上に浮かんで蜃気楼の如き観を呈し、水と建築と相俟って他に類例少なき興趣をそそる』
と、評された渋沢邸の灯火に、川面の荷船が黒ぐろと浮いて見える。明治も中期の景観だろう。」
と記し、この美しい版画〖鎧橋遠景〗を採録している。
なお、2021年10月24日に放送されたNHK大河ドラマ、青天を衝け「栄一、銀行を作る」の末尾では、渋沢ゆかりの地として、多くの船が行き交う水路に面した渋沢邸と、その右奥にそびえる第一国立銀行が描かれた絵図などを紹介していた。また、「東京裏返し 社会学的街歩きガイド」(吉見俊哉著、集英社新書)では、その 308ページに「現在の兜町」と題する地図を掲載し、その地図中において、日証館(渋沢栄一邸跡)、みずほ銀行兜町支店(銀行発祥の地)などの位置を示している。さらに、「渋沢はその実業の原点で、石神井川を見下ろす飛鳥山に屋敷を構え、王子周辺の川の水を利用して製紙業を興しました。-(中略)-渋沢が日本橋川沿いで最初に起こした事業は兜町の第一国立銀行(現みずほ銀行)で、渋沢はそのすぐ近くにも邸宅を建て、職住近接の住居にしていました。」と記している。
- 中国人と海や島との関係、そして領土に関する意識は?
古来、中国人は万里の長城を築いて北方からの脅威に備えてきた。それでは、海に対してはどのように対処してきたのであろうか。また、領土や国境線に関しては、どのような意識をもっていたのだろうか。
まず、海に関しては、北方の敵に対する万里の長城の構築に熱心で、西欧列強と接触するまでは、中国人はほとんど関心を抱いていなかったようだ。一方地上の領土については、その時代の王朝の支配の及ぶ地域が領土であって、その境界は、周囲の未開の蛮族との力関係で決まるものとして意識されていたのかもしれない。中国の中でも三国時代など諸国それぞれが競い合う時代もあり、中国王朝の、固有の固定された領土という認識はなかったのではないか。
かつての中国は、みずからを天下の中心としてとらえ、来る者は拒まずというような寛容な国であった。シルクロードの存在がその象徴ではないだろうか。しかし現在では、強権により、過去の栄光?をたたえ、世界を支配しようとする国になっているようにみえる。その方向性は、全く逆になっているようだ。
ここで、漢民族と海や島との関係について、「対談 中国を考える 司馬遼太郎・陳舜臣」(文春文庫)からいくつかの発言を引用してみたい。
司馬 ところが、中国ではいまでも日本のことを“倭”という。朝鮮でも“倭”というし、非常に悪い意味らしいけど、“倭奴”ともいうね。それから、日中戦争のときに、中国側の新聞は「倭軍、何とかに上陸」とか、書いた。
陳 しかし、“倭”というのは、そう悪い言葉ではないね。人偏でしょう。たいていはけもの偏ですよ(笑)。
司馬 僕はこの前、台湾の横っ腹にある与那国島に行って、「ほう」と思ったんだけれども、そこではむろん古来、日本語の一派を話してる。つまり、中国語の影響を受けてないわけだ。なぜ漢民族はここまでこなかったのかと、よく考えてみたら、漢民族は海や島をとくに恐れたり嫌ったりするのやな。漁をして食べていく技術がないから、こんなに中国の近くに島があっても来たがらない。だから、台湾が漢民族化するのはびっくりするほど遅い。台湾に漢民族がやってくるのはずっと時代がくだるわけで、日本の時代区分でいえば徳川初期ですね。
陳 鄭成功のころ(十七世紀中期)。鄭成功のころは商売人しかいなかったので、鄭成功が中国本土から移民を呼んできた。
司馬 そのくらい漢民族は海や島を恐れたわけだ。恐らく舟山列島とか海南島とか、中国周辺にはいろいろな島があるけれども当時は漢民族的風習を持っていない連中が住んでいたんだろうね。与那国島でつくづく僕は漢民族というのは大陸でないと安心できない、大陸でなかったらメシが食えないという文化を持つ巨大で頑固な農耕民族だという感じがしたな。
陳 春秋戦国時代の漢民族は、お城の中に住んでいて、農民は早朝その外に出て行って、耕して、夜になるとまた帰ってくるわけでしょう。自分らは畑をつくっているけれども、蛮族が荒しに来たら城の中に逃げ込む。
陳 だから漢民族は農耕民族であることは間違いないけれども、城郭民族でもあった。
司馬 宋が異民族の帝国である金に追われて、揚子江以南に逃げ、そこでか細く余命を保っている。読書人も北から逃げて、官吏も北から逃げて、そこで強烈に起こってくるのは、異民族の害からわれわれ漢民族は立ち上がらなきゃならない、という考えですね。尊王攘夷という言葉がこの時代に成立する。
司馬 これが宋学を生み、民族主義を生み、それが日本に影響を与えて、後醍醐天皇以来、宋学好きになり、明治維新のムードは尊王攘夷になる。
陳 宋代ですよ。そのころまでは中国に刺身はあったはずなんですよ。そのあと、大きな疫病があったかなんかで、刺身は食ってはいかんというので、やめてしまったと思うんですよ。いつからなくなったんですかねえ。茶道とか、生け花でも、昔は向こうにあったけれどもいつの間にかなくなって、いまでは日本がそれを保存しているということですよ。
司馬 歴世、中国人というのは、非常に変わった連中は別として、海に無縁で、何千年も内陸型の政治姿勢を続けてきた。だから、中国人が近代になるまでに海洋に関心を持ったことは、まあまあ鄭和の遠征ぐらいしか極端に言えばない。
陳 鄭和の場合も、あれは海外にインタレストがあったというより、非常に政治的遠征ですね。あのとき、建文帝が行方不明になっちゃったからですよ。
次に、中国と領土の関係について、「中国の歴史」(岸本美緒著、ちくま学芸文庫)から、いくつかの文章を引用してみたい。
- 戦国時代のはじめには、「中国」と呼ばれる範囲は、殷・周など初期王朝の中心地に近い黄河中流域の諸国に限られ、長江より南の諸国(楚・呉・越)や西方の秦などは「戎翟(じゅうてき)」「蛮夷」などと呼ばれて、「中国」のなかに入らなかった。しかし、しだいにそれらの国々も「中国」の中に組み込まれてゆき、自らを「中国」の一部と意識するようになる。そして、秦による統一を経た漢代になると、統一王朝の直接支配領域をほぼ「中国」に重ね合わせてその外の領域と対比する用法が定着してくる。
- ここで注目しておきたいのは、「中国」とはもともと、国の名前ではなく、複数の国を含むゆるい文明圏を指す語だったということである。「中国」(「華夏」「中華」などともいう)という語はその後も帝政時代を通じて用いられ続けるが、それは「世界の中央にある(われわれの)領域」といった漠然とした意味であった。
- 中国」とは、以上のような華夷思想の世界像の中で、「戎狄」に対比して文明の高い中心部を漠然と指す語として使われていた。帝政時代の「中国」の人々にとって「国の名前(国号)」とは、「漢」、「唐」などの王朝名であって、「中国」ではなかった。
- 「中国」という語がはっきりした国の名前として用いられるようになったのは、近代のナショナリズムが中国に及んできた十九世紀末以降のことである。清末の改革思想家梁啓超は、自国の歴史をいかに名づけるか、という問題に関して、様々な呼び方を考慮した上で、「中国史」という名称を提案している。
黄河文明以来、ユーラシア大陸の東部を舞台に展開してきた歴史を「中国史」と呼ぶことは、われわれにとってはあたり前のこととなっているが、「中国史」という呼び方は、たかだか100年ほど前に用いられるようになったものであることが知られよう。
- 清朝が中国全土の征服を開始すると、(中略)一六四五年には清軍はほぼ全土を占領した。清にとって最大の強敵は、東南海岸を拠点とする鄭成功の勢力であった。
- 鄭氏は清軍に本土の拠点を奪われると、台湾のオランダ勢力を追い払って台湾を占領し、一六八〇年代の初めまで抵抗を続ける。
- 一六八三年、ついに鄭氏は清朝に降伏することになった。
- 乾隆帝の時代に、清朝の領土は最大となった。(注:在位1735-95年)
- - (この間に、記事はないが、時代は19世紀に)- -
- インドシナ半島では、ヴェトナムへの支配権を確立しようとするフランスがヴェトナム北部で清軍と衝突し、一八八四年に清仏戦争がはじまった。フランス海軍は台湾を封鎖し、清朝朝廷で和平論が強まった結果、翌年に天津条約が結ばれ、清朝はヴェトナムに対するフランスの保護権を認めるとともに、華南諸省におけるフランスの通商・鉄道建設上の特権を認めた。インドシナ全域へのフランスの影響力拡大を恐れたイギリスは同年、軍隊をビルマに派遣し、全ビルマを支配下に入れた。
このような列強の動きに対抗し、清朝の側でも、周辺地域の実効支配を強化しようとする政策をとった。清仏戦争後には、従来福建省属の一つの府にすぎなかった台湾を省に昇格した。
- 以上の範囲を現在の中華人民共和国の領土と比較してみると、沿海州など東北の北部がロシア領となり、外モンゴルがモンゴル国となり、また台湾が中華人民共和国政府の支配の外にあるほかは、ほぼ重なりあう。しかし、清朝支配者の目から見て、その支配地域は、必ずしもこの範囲に止まるものではなかった。朝鮮・琉球など、清朝に定期的に朝貢使を派遣する周辺諸国も、(中略)現実の支配はおよばなかったとはいえ、理念的には天子の勢力のもとにあった。また、広州に来航するヨーロッパ船など、朝貢でなく貿易をおこなうのみの外国(「互市の国」)も、清朝の目から見れば、天子の徳を慕ってはるばるやってくるという意味で、潜在的な支配関係の枠組のなかで認識されていた。
6.中国と台湾との歴史的な関係はどうなっていたのか
さらに、台湾に関しては、「台湾の歴史と文化~六つの時代が織りなす『美麗島』~」(大東和重著、中公新書)をみると、その序文では、次のように記している。
「しかし残念ながら、台湾に関する知識は、日本ではさほど共有されていない。歴史上の人物を挙げてください、と質問されて、すらすらと名前の浮かぶ人はまれだろう。
中学はもちろん高校の歴史の教科書でも、台湾に関する記述はごくわずかである。」
次に、同書の詳細な年表から一部を簡略に抜粋して引用する。この年表に現れる最初の年は、なんと、1622年である。
台湾歴史年表(抜粋)
1622 オランダ、澎湖島を占領
1624 オランダ、台南周辺を占領
1662 鄭成功、オランダを台湾から駆逐、台湾南部を支配
1683 鄭氏政権、清朝に降伏
- - - (この間の約200年、記事はない)- - -
1894 日清戦争勃発
1895 下関条約締結、台湾・澎湖を日本へ割譲、日本軍が台湾を占領
1937 日中戦争勃発
1941 太平洋戦争勃発
1945 日本が連合国に降伏、国民党政府が台湾を接収
1949 共産党との内戦に敗北した国民党政府、首都を台北に移す
1971 中華民国、国連を脱退
1972 日中国交正常化、台日断交
台湾が清朝の版図に属したのは、1684年から1895年までの、200年余りの間に過ぎなかった。しかも、清朝には、当初は台湾を領有する意図はなかったという。当時、鄭成功が台湾に進出し、清朝に反旗を翻していた。鄭の目的は、清朝を倒し、漢民族による明朝の再興をはかろうとするものであった。清朝が台湾に進出したのは、鄭の一味を征伐することのみが目的であった。しかし土地が豊かであるということで、一転、領有することになったという。
ところで、清朝は、漢民族による王朝ではない。明朝に至るまでの漢民族による諸王朝は、歴史的に、かつて一度も台湾を領有したことはない。従って、「台湾は中国の固有の領土であり、中国と台湾は一体」という現代中国政府の主張は、無理筋として、空疎に響くのだ。
1894年に日清戦争が勃発し、1895年には下関条約が締結されて、台湾・澎湖が日本に割譲され、日本軍が台湾を占領した。
1945年に日本は敗戦し、国民党政府は台湾を接収する。しかし、1949年、共産党との内戦に敗北した国民党は、首都を台湾の台北に移した。
結局、中国共産党政府は、台湾を一度も領有したことがないし、漢民族による王朝が、台湾を領有したこともないのだ。中国と台湾は歴史的に一体であったというのは、東シナ海、南シナ海はすべて中国のものという主張の正当性の根拠として創作されたものではないのだろうか。
2022年1月15日のテレビ報道によると、アメリカの国務省は、中国の南シナ海における領有権の主張には法的根拠がないとする報告書を発表した。これに対して中国は、南シナ海での中国の領有権と権益は、長い歴史の中で確立されたものと反論した、という。確かに、中国の歴史は長い。しかし、この主張の根拠となるべき歴史的事実はない。中国の共産党政府と台湾との間には、歴史的な接点はない。1949年に成立した毛沢東の中国共産党政府にとって、当時は建国、文化大革命など、台湾どころではない時代だったのだ。
中国政府は、台湾問題は中国の内政問題と主張するが、中国と台湾が一体だった歴史はごく短いし、共産党に敗れた蒋介石が逃げ込んだ台湾について、この問題は中国の内政問題であるという主張には、説得力は全くない。中国政府のいう「祖国の完全な統一という歴史的な任務」という壮大なスローガンには、根拠らしきものは何もなく、中国が得意とする壮大なプロパガンダの域を出ていない。漢民族が、隋や唐の時代から台湾に進出していたという事実はないし、台湾は、長い間、高砂族などの先住民の住む島であり続けた。
中国としては、これらの島々を領有しない限り、東シナ海も南シナ海もすべて中国のものという“神話”の根拠が脆弱になることを危惧しているのであろう。従って、これらの島々の領有は、それこそ国家的な“至上命題”なのだ。すなわち、中国は国家的な優先課題として、台湾と尖閣を領土化する決意を固めているということになる。事は、単なる小さな島々の領有権にはとどまらない。中国の周囲の海も島々も、すべて中国のものという原則が通用するのかどうか、という問題の核心部分に触れるものなのだ。
2023年4月22日、朝日新聞のオピニオンのページに「『断交』半世紀 台湾とは ~民主化で強まった政治的な主体性と住民の台湾人意識~」というインタビュー記事が掲載された。昨年は日中国交正常化50年であり、それは日本と台湾との断交50年でもあったという。その内容の一部を紹介したい。
- 台湾の地政学的な位置づけは歴史的に変わりがない。台湾は、その戦略的価値をどの大国が握るかで、東アジアのバランスが大きく変わる場所として存在してきた
- 国際政治学者の白石隆氏の言葉を借りれば、台湾は、中国を中心とする大陸パワーの『陸のアジア』と、海洋パワーとしての『海のアジア』の気圧の谷が行ったり来たりしている場所
- 西欧列強が海を越えて東アジアに進出した17世紀、まずオランダが統治した。続いて清朝が圧倒的存在感を持っている時代は、陸のアジアの高気圧、つまりパワーが台湾を覆っていた。清朝が衰退すると、海のパワーとして『大日本帝国』が50年ほど、植民地にした。日本にとって台湾は南洋をにらんだ戦略的な拠点であった。戦後は海のアジアの主役となった米国のパワーが台湾、そして台湾海峡までを掌握してきた
では、台湾とは何であるかという視点からみると、
- 日本の植民地支配が終わり、大陸の国民党政権がやってきて、独裁体制を敷いた
- しかし、この30年余りで台湾内部は大きく変わった。96年以降は4年に1度、総統を直接選挙で選んでおり、投票のたびに自分は台湾を治める主人公、台湾人であるというアイデンティティーが強化されている。中国から渡ってきた人も、もともと台湾にいる人も、先住民も、等しく台湾人になりつつある
- 台湾の人々の自己認識に関する世論調査(政治大学)によると、
6割強が台湾人
3割強が台湾人であり、かつ同時に中国人でもある
残り数%が中国人、と答えている。
さらに、「日本と台湾 ~なぜ、両国は運命共同体なのか~」(加瀬英明著、祥伝社黄金文庫)から、興味深い文章を引用したい。
それは、誤っている。大陸の一部でなかったから、十七世紀に入るまで、大陸から人々が渡ってくることは、ほとんどなかった。
台湾は大陸の一部であるよりも、日本からインドネシアのボルネオ島まで連なる、長い列島に属している島々の一つである。
- 張教授によれば、中国には台湾と海南島の二つの大きな島がある。面積はほぼ同じだ。両島は清朝によって『化外(けがい)の地』と呼ばれていた(注:未開で、領土ではないということか) 。
- ある時、張教授と話していたら、『もし、日清戦争後に日本が台湾ではなく、海南島を領有していたとすれば、今日、海南島が台湾のように発展していて、きっと台湾は、いまだに海南島の水準にあったことでしょう』といった。
- 日本では台湾の先住民族をすべて高砂族と呼ぶようになった。
- 先住民が話す言葉は、マレー・インドネシア語、フィリピン諸語と同じ語族に属している。
- 台湾と中国は、民族からいっても、文化をとっても、全く異なっている。
台湾人は、大漢民族、あるいは漢族の一員でない。
十七世紀後半から、十九世紀にかけて台湾に渡ってきた人々は、漢人ではない。
対岸の福建省の南部に住む人々は、閩(びん)と呼ばれた種族だった。東南アジアから中国の沿岸までにわたって住む民である。
客家も、漢民族と大きく異なっている。台湾では、北京語、台湾語と並んで、客家語の放送局もある。
- 客家は漢族による迫害を蒙り、被差別民として大陸を漂って、山間部に住んでいた。地元でなく、他からやってきた余所者だったために、客家と呼ばれた。
- 閩族も、客家も、悪政 から逃れるため、故郷を捨てて、台湾に渡った難民だった。
- 明、清時代を通じて、海外へ渡航を禁じる海禁政策がとられていたために、男ばかりが台湾に向かった。そこで、男たちは先住民の女性と通婚した。先住民の女性には、彫が深い、蠱惑的な美人が少なくない。
そのために、今日の台湾人の大多数は祖先として、大陸系の祖々父か、その先がいても、その時代に大陸から渡ってきた女性がいない。
- 閩族や客家は、数百年にもわたって、先住民と混血が繰り返されてきた。今日の台湾国民の七〇パーセント以上が、先住民の血を引いているといわれる。
- あるアメリカの権威あるアジア史専門家は、「台湾に最初の移民村をつくったのは、日本の貿易商人か、海賊だった。(中略)かなりの数の日本人が定着した。日本人に続いてスペイン人と、オランダ人が来た」と、述べている。
その後、大陸からまとまった数の難民が食い詰めて、台湾に渡ってきた。
大陸から多くの流民が台湾に渡ってきたのは、十七世紀に入ってからのことだった。それまで台湾は長いあいだにわたって、大陸とかかわりがなかった。
- 台湾がその一部にせよ、中国に属していたのは、明朝とそのあとの清朝のごく一時期でしかなかった。
オランダの東インド会社が、台湾を支配する前に澎湖諸島に拠点をつくって、一六二二年に砦の建設に取りかかった。明朝が澎湖諸島を領土とみなしていたために、出兵してオランダとのあいだに交渉が行われた。
このときに、明朝は台湾が領土ではないといって、オランダに台湾へ移るように提案した。そこで一六二四年、オランダは澎湖諸島から撤退して、台湾を占拠した。
- 宋代(九六〇年~一二七九年)の『華夷図』には、海南島が載っているものの、台湾はどこにも描かれていない。清の乾隆帝の治世に編纂された『清史』のなかの『外国列伝』は、台湾北部にある鶏卵国が日本に属していると、記している。台湾は中国の一部では、けっしてない。
- 中国は、清が一六八四年から台湾を領有していると主張しているが、一方的に主張しているだけで、統治もごく一部にすぎなかった。第三国によって領有が承認されたのは、一八七四年が最初である。
ましてや、台湾が中華人民共和国の一部であったことは、一度もない。
- 台湾は、人種的にも、歴史的にも、文化的にも、中国に属していない。
台湾は、日本統治によって、日本と「価値観を共有」するようになった。台湾はもうひとつの日本なのだ。このような国は、他にはない。
- 台湾の法的地位は、日本がポツダム宣言によって領有権を放棄したのを受けて、対日講和条約が結ばれたうえで、連合国が決定するまで、未定とされた。
- 中華民国は台湾の法的な地位が確定するまでのあいだ、連合国間の合意によって、台湾を占領しただけのことであって、今日でも、台湾は中華民国による占領下にある。
- 台湾は法的には、中華人民共和国の領土でも、中華民国の領土でもない。
- 台湾は、いまだに第二次大戦中に連合国の一員であった中華民国による占領を蒙っている。アジアにおいては、台湾と、日本の北方領土である歯舞、色丹、国後、択捉の北方四島もまた、いまでも法的には連合国の占領下にある。
- 中華民国憲法は、蒋介石政権がまだ南京にあった、一九四六(昭和二十一)年十二月に制定されたが、第四条が「中華民国の領土は、その固有の領域による。国民大会の決議を経なければ、変更することができない」と、規定している。現行憲法は制定されたはじめから、台湾を領土として、規定してこなかった。
- 国民党政権が---(略)---大陸から駆逐されてしまったために、国民大会を開催することができず、今日まで領土条項を改められないでいる。
- このように、台湾が中華民国の領土であったことはない。中国の台湾に対する主張も、同じように根拠がない。
- 今日、中国を支配している中華人民共和国は、「五000年の中華民族の歴史」を受け継いでいるといって誇っている。五000年はあるまいが、漢族は誇大に妄想するのを好む。
- 台湾の人口構成
台湾人 総人口2,300万人
中国系(98%)
閩南系(73%) (福建系)
客家系(13%)
外省人(12%)
原住民(2%)
日本時代に教育を受けた誰もが、かつての日本を誇りにしていた。
- 日本統治下の台湾では、日本人は内地人、台湾人は本島人と呼ばれていた。
私は台湾人があのころから日本に熱い思いを寄せており、どうして台湾国民が二〇一一(平成23)年の東日本大震災に当たって、どの国よりも多額の二〇〇億円を上回る義援金を募って、東北の被災地に送ってくれたのか、理解することができる。
- 「遮天鉄鳥撲東京富士山頭揚漢旗!(我軍機は空を覆い、東京を爆撃して、富士山頂に漢旗<五星紅旗>を立てよ!)」
これは最新の「人民解放軍軍歌」だ。
富士山頂にも、台湾にも、漢旗を立てさせては、絶対にならない。
- 二〇一二年に、台湾の「金車教育基金」が「学生の国際観」について、一四二五人の高校生と大学生を対象として、調査を行っている。
台湾にとって「最も友好的な国家」は、五六・一パーセントが日本と回答して、やはり一位に挙げられ、アメリカが二位で続き、「最も非友好的な国」は、八七・九パーセントが中国で一位、二位が韓国で四七・四パーセントだった。
- 台湾で「日本式」といえば、人が「律儀である」「約束を守る」「騙さない」「信用できる」「マナーが正しい」という意味で使われているが、「中国式」といえば、その正反対となる。この二つの言葉は、台湾の人々の日常会話のなかで、よく用いられている。
- 尖閣諸島は疑いもなく、日本の領土である。日本政府が一八八五(明治十八)年から尖閣諸島の現地調査を行って、清朝の支配下にない無人島であることを、慎重に確認したうえで、一〇年後になって、ようやく領土として編入した。
いまになって、中国は日本が清から略取したと主張して、「日本が盗んだ」といって騒ぎたてている。しかし、中国が初めて尖閣諸島の領有権を主張したのは、一九七一(昭和四十六)年に国連のアジア極東経済委員会が、南シナ海の海底に、巨大なガス田、油田が、埋蔵されていると発表した直後のことだった。
ところで、最近「中国「国恥地図」の謎を解く」(譚璐美著、新潮新書)により、以下のような新たな知見・興味深い情報を得ることができた。
- 1928年、蒋介石は、清朝の全盛期の版図に比べ、現状では多くの領土が外国に奪われているとして、その状況を示して国民を啓蒙することを決意した
- 小学校、中学校の教科書を改訂し、国恥に重点を置き、領土の回復を図る
- 教科書に掲載された「国恥地図」は、現代の中国人にとっては常識である。現在も年に4回の国恥記念日が定着しており、各地で式典が行われている。いずれの記念日も、日本に深く関係している
- 香港の中国への返還当時、国恥地図が現地でブームになったという
- 国恥地図には様々なバージョンがある
- 初期の国恥地図では、中国の領土の南限は海南島までとされたが、その後は、南シナ海も本来の領土に含まれるようになった
- 最近中国は、南シナ海に軍事基地を建設して領土化するとともに、香港の本土化も強硬に進めた。中国の次の目標は、国恥地図を見る限り、尖閣諸島と台湾の領土化である
また、「国恥地図」については、BS-TBSで放送された「報道1930」(2022年6月3日)という番組が取り上げていた。番組によると、この地図は中国が列強から奪われた領土を地図に表したというもので、その中には長年にわたって中国に朝貢した国々も含まれている。そうした意味では琉球(沖縄)も含まれている。つまり、沖縄は、中国が回復すべき領土の一部なのかもしれない。
しかも、重要なのは、この地図は、習主席の歴史観の原点ということらしい、ということだ。中国共産党の指導者が、かつての敵であった蒋介石の政策に同調しているということになる。現在の中国が国連の常任理事国であるのも、中国共産党が勝ち取ったものではなく、日本と戦った蒋介石によるものではないのか。こと領土問題に関しては、イデオロギーは関係ない、ということかもしれない。
中国の主張は、歴史上一度でも中国王朝に朝貢した国、地域とその周辺の地域はすべて古来の中国領というもののようだ。
沖縄(琉球)は長期にわたって中国に朝貢していた歴史がある。中国側からすれば、沖縄は中国の一部という感覚がないとは言えないのだろう。そうなれば、沖縄が香港化、すなわち、中国の領土化される日がくるかも知れない。
また、かつて遣隋使や遣唐使をしきりに送ってきた、東海の小さな島国もあったな、と思う中国の指導者も、出てくるかも知れない。
こうなると、ギリシャ、ローマから始まって、蒙古やスペイン、オランダ、イギリスなどは、かつて支配した領土を、自国の領土であると主張できるようになる。いかにも理に反した、独善的な、中国らしい主張といえるだろう。
2024年1月18日、21:00からNHK BSで「ザ・プロファイラー 夢と野望の人生 ヒトラーが憧れた独裁者 ムッソリーニ」という番組が放送された。その冒頭のナレーションは、以下のようなものだった。
「ムッソリーニが掲げたスローガン、それはローマ帝国の再興。古代ローマは最盛期、広大な領土を持つ超大国だった。かつての栄光を取り戻すため、ムッソリーニが推し進めた政治運動が、ファシズム(全体主義)、国民よりも国家を優先する、全体主義の体制である。イタリア国民は、強いリーダー、ムッソリーニを救世主のごとく熱狂的に迎えた。」
しかし、最終的には、民衆はムッソリーニを糾弾、最後には処刑した。
ローマ帝国の再興を掲げたムッソリーニ。そして清朝の再興を掲げる現在の中国、その試みはどう理解するべきなのだろうか。
ところで、ある国の沿岸にある島は、すべてその国の領土であるかというと、必ずしもそうは言い切れない。実際に、フランスの大西洋沿岸にはジャージー島(イギリス王室の直轄地で独自の政府や言語を持つ。ジャージー牛の原産地)などのイギリス領の島々があり、トルコの地中海沿岸にはギリシャ領の島々が多数ある。従って、中国の近くにある島はすべて中国のものとは、必ずしもいえないのだ。
今、日本近海には、注目を集める尖閣諸島がある。絶海の孤島(諸島)である。絶海の孤島とは、船乗りにとって、暴風雨に遭遇したときに命を守るための、貴重な島影を提供する。彼らにとっては、絶海の孤島ほど貴重な存在はない(と、素人的には思われる)。しかし、大陸の人間には、そんな島は無価値である(と、これまた思われる)。中国が突然、周辺の島はすべて中国古来の島々と言い出したのは、海底の地下資源が注目されるようになってからではないだろうか。
現在、中国は、台湾も尖閣諸島も中国固有のものと主張している。その主張に、何らかの根拠はあるのだろうか。少なくとも台湾は、かつて国共内戦に敗れた国民党が逃げ込んだ島であり、宿敵であるその残党どもを成敗しなければならないという理由があるのかもしれない。
しかし、尖閣にはかつて日本の工場があり、多くの日本人が働いていたという歴史があり、台湾とは事情が全く異なる。
と、ここで新たなテレビ番組を見た。2023年10月21日にテレビ朝日で放送された「池上彰そうだったのか 世界の国や人は日本へイチャモンだらけSP」が、中国との尖閣諸島の問題に触れていた。その内容は以下の通り。
- 国際法上、尖閣諸島は1895年から日本の領土である
- 釣魚島(尖閣諸島)を中国のものにするため、現在毎日のように中国の船が尖閣周辺にやって来ている
- 中国は、かつて、尖閣諸島を日本の領土と認めていた
- その証拠として、1953年1月8日付けの「人民日報」の記事を写真で紹介した
- そこには、「琉球諸島は、わが国(注:中国。以下同様。)の台湾東北部及び日本の九州南西部の間の海上に散在しており、尖閣諸島、先島諸島、大東諸島、沖縄諸島、大島諸島、トカラ諸島、大隅諸島の7組の島嶼からなる。」と冒頭に書かれていると紹介した。ここでは、尖閣諸島は、沖縄の一部であると認めている
- 当時、沖縄はアメリカに占領されていた
- 記事の趣旨は、沖縄の人たちが反米闘争をくり広げている、というもの
- 国連の調査で尖閣諸島の周辺に海底資源があると発表されたとたん、これは中国のものと主張し始めた
なお、この番組では、東京電力福島第一原発の処理水の放出についても取り上げていた。“中国のクレームは矛盾だらけ”と題して、トリチウムの年間液体放出量の現実を示していた。そのデータは以下の通り(単位はベクレル)。
中国:(2020年、または2021年のデータ、いずれも概算)
紅沿河原発 90兆
秦山第三原発 143兆
寧徳原発 102兆
陽江原発 112兆
原発では核関連物質の発生が不可避と思われるが、東電はトリチウム以外の汚染物質はすべて取り除き、処理水として排出しているという。しかし,中国を含む外国の原発では、そういう対応はとられていないようだ。朝日新聞の2023年9月4日(朝刊)の記事「始まった処理水放出」では、この問題がさらに詳細に報じられている。
また中国では、日本の東北沖で、日本の漁船がとる魚は危険だからとして輸入禁止だが、さらにその沖合で中国漁船がとる魚は安全だとしている。中国人も、政府の発表には疑問を感じ、最近ではそうした魚は敬遠して消費が減ってきているようで、政府も対応を迫られているらしい。
- 「最終行程0」問題
ところで、気分一新、ここで問題が生じる。古田氏の著書にいう、「最終行程0」という問題である。行程の最終区間にあたる「不弥国-邪馬壹国」間の距離が記されておらず、当然その国間距離が「0」となることである。卑弥呼の国は、それまでに使者が通過してきた国の中でも大国であり、その国と不弥国との間の距離がない、というのは不可解である。陸続きの国同士の間で、国の中心部の間の距離は、離れているはずである。現在の糸島は、かつては島であったらしいが、現在では一部が九州本土と陸続きになっており、陸続きになっていない部分は、細長い湾になっている。この湾の両岸に2つの国があったと考えることも可能である。しかし可能性が高いのは、たとえば福岡市の西部、室見川の河口の両岸に2つの国の中心部が向かい合っていた場合である。しかしながら、現状ではそう断言することができない。最終的に邪馬台国の位置を確定するためには、倭人伝に示された距離を基準にするか、あるいは、倭人伝にいう「居処・宮室・楼観・城柵」や径百歩の大きな墳墓などの、衛星による地形の調査や、微細な土地の高低を識別できる最新のデジタル航空測量、考古学的な発掘などによるしかないのであろう。2021年5月29日放送の ETV特集 選「誕生・ヤマト王権」によれば、最近では国土地理院が公開する立体地図により、前方後方墳など古代遺跡の発見もあるという。なお、奈良の箸墓古墳について、卑弥呼の墓であるという説があるようだが、この古墳は、卑弥呼の時代よりもはるか後世に成立した前方後円墳だと考えるので、その一部である後円部のみが卑弥呼の径百歩の墓であるという説は、理解しがたい。
- 現地を体験
この巨大な「山」に関する中国の使者の体験を、現代の我々が疑似体験するには、壱岐から呼子までの定期航路をたどってみればよい。乗り慣れた地元の乗客は船室内で横になってしまうが、船上に立って前方を見つめれば、ドラマチックな光景を目にすることができる。一度でも玄界灘を船で南下したことがあれば、この「山」の問題に気付いたはずである。机上の論だけでなく、実際に現地を踏査することの重要性を痛感させられる。
卑弥呼を共立したのは数十か国、しかるに松浦半島に上陸してから邪馬台国までに経由する国の数はわずかに数か国であり、いずれも小さな漁村程度である。もし邪馬台国が大和にあったとしたら、経由する国の数は100や200で済むのだろうか。ましてや、倭国大乱となったら、近畿から北部九州までを巻き込む大戦争があったことになってしまう。はるか後世の戦国時代でも、関ヶ原に至るまでは、個別の小さな戦いの連続と集積でしかない。
ここで、参考までに日本の人口の推移をみると、
西暦(年) 時代 年号 人口(人)
紀元前 5200 縄文前期 10万6000
紀元前 4300 縄文中期 26万000
紀元前 3300 縄文後期 16万0000
紀元前 2900 縄文晩期 7万6000
紀元前 1800 弥生時代 59万5000
725 奈良時代 451万2000
1150 平安末期 683万7000
1600 慶長 5年 1227万3000
---------------------- (中略) -------------------------
1873 明治 6年 3229万7000
1890 明治23年 4131万0000
1920 大正 9年 5596万3000
1950 昭和25年 8389万8000
1975 昭和50年 1億1194万0000
1995 平成 7年 1億2557万0000
となっている。「人口と日本経済 長寿、イノベーション、経済成長」(吉川 洋著、中公新書)より抜粋した。
- そもそもの発想:なぜ「山島」なのか
以上のような考察を行ったきっかけは、逆転の発想からである。倭人伝を普通に読んでも邪馬台国の場所はわかりにくい。しかし、知性も教養も備えた歴史家である著者が、邪馬台国に使いした人物の正式な報告書をもとに、正確を期して著した倭人伝には、邪馬台国の場所が正確に記録されているはずである。
古代の記録であるから、記述は不正確で、いい加減なはずであるとするべきではない。わずか十数世紀程度の時間では、人間が大して進化を遂げるわけもなく、古代人のしたことだからと見下すのは、現代人の傲慢というものである。
その記録の方法は、当然、当時の方法になるはずであるが、いずれにしても、そこには必要にして十分なだけの情報が含まれているはずである。もし倭人伝を正しく読み解けたとしたら、そこにはどんな光景が見えてくるだろうか。これが発想の原点となった。
また、長い文章を書く場合、その冒頭に全体の核心を的確に表現する一文を書くこともあるだろう。さらに、かつて住んでいた福岡から壱岐へ一泊旅行にでかけ、帰路に呼子までの定期航路をたどった時の、あの感動的な光景を思いあわせたとき、冒頭の「山」というキーワードに行き着いた。
現代であれば、ある場所を示すとき、地図や緯度経度などで、その場所を示すことになる。しかし当然ながら、倭人伝の場合には、そうはいかない。従って、倭人伝を読むにあたっては、当時の方法で読む必要がある。
倭人伝における場所の示し方は、方角、距離、所要日数の3要素である。ここで最も重要なものは、方角である。なぜなら、所要日数は、結局のところ距離にほかならず、従って距離、所要日数のいずれかが間違って異なった距離を示していたとしても、どちらかの距離まで行けば必ず目的地に到達できる。しかし方角を間違えた場合は、決して目的地に到達することはない。従って、倭人伝における方角については、確たる根拠もなしに、安易に間違いであると断定することは、非常に危険であり、絶対に避けねばならないのである。
- 一貫していた中国の対日認識
中国のその後の史書の記述を参照してみると、「大和の朝廷は、倭人伝にいう卑弥呼の国(倭国)が転じた国」、こうした中国の王朝側の対日認識が、歴史上ほぼ一貫していることがわかる。倭人伝の邪馬台国は、現代日本のルーツであった。飛鳥・奈良の王朝は、筑紫にあった、古田氏のいう九州王朝の、後継王朝である。いわゆる神武東征に符合する。邪馬台国と大和王朝は同じ王朝、中国歴代の正史はそう語っているのである。
また宋史の「日本国」では、日本では国王もその臣下である公家たちも最初から世襲で続いているのに、翻ってこの中国では唐の末期から国内は分裂し、と皇帝の太宗が嘆いている。すなわち、日本では倭国以来、最初から、連綿と王位が続いていると、中国側は認識しているのである。
そこには、天命が失われれば、皇帝は去り、新しい皇帝による新しい王朝が生まれるという中国的な思想が反映されている。
現代の日本人にはそうした認識はまったくないが、かつての日本人が有していた、そして中国人に語った認識、そしてその後日本では失われてしまった認識が、中国の史書に、化石のように、保存されていた、ということであろう。
いわば、各時代の日本の“近・現代史”が、今に伝えられているのである。そこには“天皇”が出現する瞬間も記録されている。宋史では、(初めて)「神武天皇と号し」、九州の筑紫から大和の橿原宮に入ったとしている。
“天皇”と称したのは、漢字への理解が深まり、中国皇帝の下位に位置づけられる“王”ではなく、天からの使命を託されたという意味を持つ、新たな称号が必要とされたからである。そして、この、天命を授かった皇帝を意味する“天皇”という称号の持つ、神道とも結びついた、宗教的な神聖性が、中国とは異なり、日本においては革命による政権の転覆を妨げてきたのではないだろうか。日本史上には、ついに天皇への本格的な挑戦者は出現しなかった。その神聖な血統を簒奪することはできなかったのである。
こうした視点に立てば、天孫降臨の霧島連山や世界文化遺産に登録された宗像大社などが九州にありながら、最高神を祀る伊勢神宮が三重県にあることも、十分に納得できるのである。すなわち、九州王朝の聖地は九州にあり、その後継である大和王朝の聖地は本州にあるのだ。
さらに、倭人伝では、倭人は「山島」に住むと記しているが、飛鳥・奈良の王朝の時代になると、中国の正史は、倭人は「島」に住むと記している。九州王朝が大和に移り、もはや倭人の都は、あの「山島」から離れてしまったからである。
ところで、もしかして、邪馬台国大和説が成立するのであれば、ここで一つの疑問が生じる。その説が成立するのであれば、当時の倭人が、ほかでもない、大和のある本州は、島であることを知っていたことになる。すなわち、津軽海峡の存在を、倭人は知っていたことになる。倭人は津軽海峡の存在をいかにして知っていたのか、邪馬台国大和説を主張するのであれば、この点について、最低限の説明が必要ではないか。また、北部九州や吉備、出雲などの、大和と中国大陸との間にある有力な国々との関係についても、語る必要があるだろう。それらの国々とは一切かかわらず、大阪湾から直接、中国と往来していたのだろうか。それが可能な航海術や、造船技術をいかにして獲得したのだろうか。大和説なのであるから、大和の遺跡からみた可能性、についてのみ語ればよい、というものでは決してないはずだ。
しかも、中国の使者は、倭国からさらに海を渡ったところにも倭人の国々があると教えられていた。津軽海峡の向こうにどんな国があったというのか。このことからも、大和説は成立しえないのだ。
かつて古田武彦氏の主要な著作を読んで、初めて邪馬台国の問題に触れ、その後、1980年頃に東京から福岡に転勤となり、かの地で数年を過ごした。新しい土地での新しい仕事ということで、邪馬台国どころではなかったが、その後も邪馬台国に関わるさまざまな論者の著作を読んできて、古田氏の説が唯一の正論であるとの考えがますます強まってきた。しかし、古田氏の説に、以上のような「山」をテーマとする視点がなかったことだけは残念であると感じている。
ところで、宋史では天皇が九州王朝の時代からずっと世襲していると書いているが、驚くべきことに、この世襲は、なんと現在進行形なのである。日本という国は、天皇のもと、2,000年近くも続いている国なのである。こんな例は世界で唯一というしかない。ヨーロッパでも中国でも、歴史は王朝の興亡そのものである。
しかも、「天皇は祭祀を司り、公家は天皇家の藩屏となる」という伝統は、少なくとも精神的には、現在に引き継がれている。辞書によれば、藩屏(はんぺい)とは、「帝室を守護すること。また、そのもの」である。2016年に放送されたNHKのテレビ番組「華族 150年の旅路」(2019年 9月再放送)では、クリエーティブ・ディレクターとして活躍する近衛忠大氏が紹介されていた。近衛氏は宮中での歌会始の進行役の一人で、藤原鎌足からは1,400年、五摂家の筆頭の家柄である。同氏は番組の中で、近衛家代々の菩提寺である京都の大徳寺、その一角にある近衛家専用の墓地区画を紹介していた。また同氏は、近衛家は陛下をお支えする家であることと、我々旧華族は皇室の藩屏という立場であるということは母親から言い聞かされてきたので、当然意識としてはある、という趣旨を述べていた。そして、実際、具体的に何ができるかというのは別問題ではあるが、少なくともそういう意識ではいる、と語っていた。つまり、公家もずっと世襲しているのである。「藤原氏---権力中枢の一族」(倉本一宏著、中公新書)によると、公家の各家は、それぞれの“家道”に特化することによって、天皇に仕えるようになったという。つまり、有職故実や華道、香道、茶道などの専門家に徹していたのだ。こうした専門知識や特技を武器にした公家の世界に、新人が新規参入することは、非常に困難なことではなかったかと思われる。
2019年11月9日の朝日新聞(夕刊)に、天皇即位の行事の締めくくりといえる「大嘗宮の儀」に関する記事が掲載された。記事によると、旧華族の男性当主らでつくる一般社団法人「霞会館」の衣紋道研究会が、天皇・皇后や皇族の衣装の着付けを担当しているという。
また、ヨーロッパでは政治権力に対抗する勢力として、教会という宗教的権威が外部から入り、時に対立したのに対し、日本ではそのような権威はなかった。というよりも、皇室と神道とが直接に結びついていたといえるのではないか。さらに日本は適度に大陸から距離があり、そのため、新しい文明は伝わるが、大陸の大国に支配されることはなかった。こうしたことが、日本のユニークさの根源ではないかと思えてならない。「文明の衝突」(サミュエル・ハンチントン著、集英社文庫)の序文で、日本は唯一、一つの国で一つの文明を構成している、と指摘しているように、「日本国と日本文明が合致している」のである。
と、ここまで記してきて、最後にいろいろと資料を見直している時、ふと、気がついたことがある。というのも、魏志よりも一時代前の史書である後漢書が、“邪馬台国九州説”であることに気づいたのだ。それによれば、中国側は、邪馬台国が九州北岸にあることを、認識していた。つまり、倭の奴国が中国に使者を送ったのだが、その奴国は、倭国の「極南界」、すなわち、朝鮮半島の南岸から九州北岸まで広がる倭人世界の最南端に位置すると記しており、このことは、中国は倭の奴国が九州北岸の近くにあると認識していたことを示している。そこに到る途上にある邪馬台国が九州北岸にあることは当然である。
さらに、後漢書では、朝鮮半島の楽浪郡の郡治(現在の平壌)から、倭国の最も西北にある拘邪韓国(半島の最西南端)まで七千余里、また邪馬台国までは万二千里としている。この万二千里というのは、まさに倭人伝の数値とまったく同じである。すなわち、半島の北部から南端までは7,000里、邪馬台国まではその約2倍弱としているのである。地図を見れば一目瞭然、九州北岸である。倭人伝も、こうした書き方にしてくれていたら、と思われるところである。
後漢書は、魏志より後に成立しているので、魏志の記事を前提としたうえで記す必要があった。魏志と同内容を書くわけにはいかないので、独自情報が必要であった。それが万2千里という総距離の情報であった、と思われる。
魏志は、初めて倭人の国への経路を確認したとして、その細かな行程とそれぞれの距離を詳細に記した。一方後漢書では、魏志にはない、倭国への総距離を明確に示そうとした。しかも、半島南西端への距離と比較できるようにして、邪馬台国への距離感を明確に示した。これにより、後世の読者への便をはかったといえるのではないか。
後漢書;
- 倭国はおよそ百余国からなり、それぞれの国に王がいる
- 諸国の上に倭国が君臨する形をとる、あるいは、(倭の奴国の例のように)これら諸国の全体を倭国という
- 倭国の王である大倭王は、邪馬台国(邪馬臺国)に都を置いている。倭国と邪馬台国という2つの国の間の関係は、不明、かつ不可解
- 倭国内は大乱となり、その間、倭王がいなかった
- その後、諸国は卑弥呼を倭王として共立した
倭人伝;
「及郡使倭國、皆臨津搜露」(郡使が倭国に及ぶときは、皆、港に臨んで点検照合し)
「倭國亂、相攻伐歴年、乃共立一女子為王」(倭国は擾乱、互いの攻伐が何年も続くに及んで一人の女性を王として共立した)
「太守弓遵遣建中校尉梯雋等奉詔書印綬詣倭國」(帯方郡太守の弓遵は建中校尉の梯雋らを派遣し、詔書、印綬を奉じて倭国を訪れ)
- 倭国は男性を王としてきたが中断、大乱を経て、諸国は卑弥呼を倭国の女王として共立した
- 倭人の国である倭国が倭人伝に登場するのは当然である。むしろ、邪馬台国が登場しながら、邪馬台人が登場しないのは奇妙である。アメリカ人(米国人)、フランス人、日本人、これらはすべて、国名+人の形である
などの点を確認できる。
なお、福岡市内西部には、「やまと」と読む地名が、団地や峠の名などに、いくつか残っているようだ。
- 13. “和風”は“倭風”から
和風、和食、和服、・・・。しかし、「和」という漢字には日本に関係する意味はない。漢和辞典で「和」の項をみると、最後に注記して、<和風などの場合の「和」は「倭」に由来する>などと補足で説明している例がみられる。中国で漢字が成立した時代に日本という国は存在しなかったし、日本文化というものが成立するのははるか後代のことであるから、「和」という漢字に日本に関係する意味がないのは当然である。実際、大陸側ではかなり後世まで、倭寇や倭館などのように、「倭」という文字が日本を意味する文字として使われていたようだ。
隋書によれば、倭国は「邪靡堆(やまと)」に都を置いている。
また、新唐書によれば、日本はかつて「築紫城」(宋史では、「築紫の日向宮」)に都していたが、神武天皇が都を「大和州」(宋史では、「大和州橿原宮」)に移したとしている。
これらの2点を勘案すると、恐らくは、倭という国が本州に移って、新たに諸国の頂点に立った。その国名は、「偉大なる倭」という意味で「大倭」とし、その読みには、かつての都の地名である「やまと」の音をそのまま充てた。少々乱暴ではあるが、まだ漢字あるいは文字というものに対する認識が深まっていなかったことによるのかもしれない。
その後、漢字への理解が深まるなか、国名の「大倭」を、良字を使って「大和」とし、その読みには「やまと」を、引き続き、そのまま充てた。また他方では、新唐書がいうように、大倭国は国名を、かつて併合した「日本」という名前の小国の名を採用して、「日本国」に改称した。
なお、天皇という称号、および日本という国名に関しては、講談社日本の歴史シリーズのNo,00版である「『日本』とは何か」(網野 善彦著、講談社学術文庫)によれば、それを定めたのは天武天皇であり、制度化されたのは飛鳥浄御原令によるとしている、
こうして、「倭」が「和」に変えられ、「大倭」を「大和」とすることで、倭国風を意味していた「倭風」は「和風」となったのではないか。こう考えれば辻褄が合う気がするのである。はやりの「和モダン」も、本来は「倭モダン」であったのだ。あの「大和魂」も、ここからきていた。
「大和証券」は「ダイワ証券」なのに、「戦艦大和」がなぜ「戦艦ダイワ」ではなく「戦艦ヤマト」なのか。どうしたら「大和」を「ヤマト」と読めるのか。それはあり得ないのではないか。最初に邪馬台国問題に触れてから、強く感じていた違和感が、ようやく薄らいだ気がする。
“大和ことば”、“大和はくにのまほろば”、“大和しうるわし”、“大和なでしこ”などといった表現も、倭国に由来していたのだ。
ここで、参考までに「日本大百科全書」(小学館)で「大和国家」の項目をみると、
大和政権または大和朝廷ともいう。最近では、古代国家の成立を七世紀代に求める考えが増えたので、大和政権ということが多い。なお、「大和」の表記は八世紀なかば以降に使用され、それまでは「倭」「大倭」であるので、倭政権、大倭政権とも書く。また、ヤマト政権と表記することもある。
さらに、「国史大辞典」(吉川弘文館)における「大和政権」の項を参照してみると、
・「古事記」や「日本書紀」には「大和」という国名は用いられていない
・畿内大和については主として「倭」「大倭」が使われている
・「大和」の国名は「大宝令」においてはなお「大倭」である
・天平二年の大和国の「正税帳」は「大倭国正税帳」と記され、「大倭国」の国印が用いられた
・「養老令」に至って「大和」と表記された
・「養老令」の施行以後、ひろく「大和国」が使用されるようになる
などと説明されている。
ここに到って考えてみると、重大な疑念を抱かざるを得ない。
「邪馬台」の読みは、「やまと」ではないのかと。
「やまたい」という国名には、邪馬台国をめぐる論争に興味を抱いた当初から、日本語として違和感を抱いていた。この国名にはどんな意味があるのか。とにかく意味不明であるとしか言いようがない。しかも、不思議なことに、「邪馬台」という国名は、倭人伝より後、中国の正史に一度も出現しないのである。中国の周辺には、数多くの国々が成立し、あるいは勢力を強め、または滅亡してきた。中国の各時代の正史は、それらの諸国について、その最新の情報を記録してきた。しかるに、邪馬台国についてだけは、2回言及されたのみであり、いわば邪馬台国は、中国の正史においては、異例中の異例ともいうべき存在なのだ。そこには、特別な理由が、あるはずである。
ちなみに、卑弥呼の後、2人目の女王として擁立された少女の名は「台与」である。「台与」が「とよ」であるならば、「邪馬台」は「やまと」ではないのか。隋書では、倭国の都である邪靡堆(やまと)は、魏志倭人伝にいう邪馬臺であるとしている。中国歴代の史書の内容は、その表記が異なるのは別として、一貫しているので、「邪馬台」の読みは「やまと」でなければならない。
もし、「邪馬台」が、「やまたい」ではなく「やまと」であるならば、例えば「山戸」のように、山地と平地との境界というような感じがしてくる。「戸」には、川に面するという意味もあるという。
そうだとすれば、多くの疑問が氷解する。魏志倭人伝のあらゆる要素が密接に関連し、さらには中国の各時代の正史に記された日本の姿が、生き生きとした意味を持って相互に繋がりあう。すなわち、魏志倭人伝は不可解な文書ではなく、首尾一貫した正確な歴史の記録文書群を構成する重要な文書のひとつとして、立ち現れるのである。
思えば、日本史の流れの中で突然出現し、その後、忽然として消滅した邪馬台国は、その後一切痕跡を残さない幻の国であった。いわば歴史を持たない国であった。ところが、倭人伝は、ほかでもない、日本のルーツにあたる国について語っていたのである。
後漢書では、大倭王は邪馬台国に居し、倭の奴国は倭国の極南界にあるとしており、次の魏志では、倭人伝において、邪馬台国が女王の都するところとしている(倭国に関する記述もあるが、邪馬台国と倭国との関係は不明)。
旧唐書では、倭国は、いにしえの倭の奴国であるとしている。同時に、旧唐書では、新たに日本という国名が登場し、日本はいにしえの倭の別種、あるいは日本が倭国を吸収したとしている。
次いで新唐書では、日本は、いにしえの倭の奴国であるとし、以下、新唐書、宋史、元史、明史でも、国名は日本であり、いにしえの倭の奴国であると、執拗に注意を喚起している。そしてそれぞれの時代の大和政権について、日本の政権は、倭国の時代から連綿として続いていていると強調している。
そもそも、倭人伝とは何か、それは、倭人の倭国について報告した記録なのであり、決して、邪馬台国について報告した記録ではない。邪馬台国について報告した記録なのであれば、邪馬台人伝とすべきであった。
倭人伝に書かれているように、卑弥呼は一女子から倭国の女王になったのであり、同時に邪馬台国の女王でもあることは、ありない。もしも、卑弥呼が邪馬台国の女王であるとすれば、卑弥呼は、倭国の女王としての自分に仕えることになってしまう。
いずれにしても、倭人について語る倭人伝が、邪馬台国という国について、その国内の様子やその国の人々(=邪馬台国人)について一言も語っていないのは、当然なのだ。
さらに言えば、倭国は、韓半島南端から対馬、壱岐を経て北部九州までを占める広大な領域を占める国家なので、交通や通信も発達していなかった時代に、例えば、辺境の国の王が倭国王になった場合、国の中央部に都を設けるという現実的な必要性があったのではないか、とも思われる。実際に後漢書では、大倭王は邪馬台国に居し、としており、倭国の王は邪馬台国(後述するように、のちに隋書が修正して都の名称とした)に住んで倭国全体を統治していたと報告している。そのような事例としては、例えばアメリカ合衆国が建国した時代に、都としてのワシントンを首都として建設したことが参考になるかもしれない。
一方、倭国を構成する諸国の力関係はどうだったのだろうか。なぜ、倭国の最南部に位置する奴国が中国に使者を派遣できたのか、中国の正史からは読み解くことはできない。しかし、この奴国が、現代日本のルーツである可能性は、決して低くはないのである。
ところで、ここで重大な事実に気がついた。する
邪馬台国は中国の正史には2回しか登場しないが、実は邪靡堆ならば、隋書に1度登場する。隋書では、倭国は「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也(邪靡堆(やまと)に都す。即ち魏志に謂う所の邪馬臺なる者也)」として、倭国の都の地名は邪靡堆であり、それは魏志にいう邪馬臺と同じである、と記している。
しかし、この隋書の文章は、明らかに、事実とは異なる。
魏志では、「南至邪馬壹國、女王之所都(南して邪馬台国に至る。女王の都する所なり)」と、あくまでも邪馬壹國という国名として表記しているのだ。しかし隋書では、邪馬臺は、国名ではなく、都の地名であるとしている。結果的に、魏志の記述を修正しているのだ。
すなわち、隋書はここで、邪馬壹國という国名に関する倭人伝の記述を引用する形をとりながら、実際には邪馬臺という都の地名として引用し、結果として、魏志の記述を修正しているのだ。
結論として、邪馬台国は、そもそも、存在しなかった。
そこから得られる教訓は、魏志倭人伝だけをいくら読んでも、真実に迫ることはできないということだ。
さらに、宋史の「日本国」においては、
其の年代紀の記す所に云う、初めの主は天御中主(あめのみなかぬし)と号す。次は・・・次は彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)、凡そ二十三世、並びに築紫日向宮(つくしひゅうがのみや)に都す。
彦瀲の第四子は神武天皇と号し、築紫宮自り大和州橿原宮(やまとしゅうかしはらのみや)に入居す。
(現代語訳;
献上された年代記に書かれていることによると、初めの王は天御中主と呼んだ。次は・・・、次は彦瀲尊で、およそ二十三代、みな築紫の日向宮に都を置いていた。
彦瀲の四番目の子は神武天皇と称し、築紫宮から遷って大和州橿原宮に住んだ。)
としており、神武天皇の前まで、二十三代の王が築紫の日向宮に都を置いていた、としている。倭国の都は、常に日向宮に置かれていたのだ。
実際に、福岡には日向という地名が残っている。
なお、天御中主の次からは、すべて「尊」という神の名で記され、その次の神武は「天皇」と称している。従って、ここには卑弥呼の名はないが、卑弥呼の時代にも、倭国の都は、伊都国などの国とは別格の、独立した「都」として運営されていたとしても不思議ではないのだ。
この時代の王朝の推移を整理すると、
であるが、正史の成立は、
の順となっており、後漢書は、単に魏志から邪馬台国を引用していたことになる。ちなみに、各史書の成立年をみると、三国志は陳寿(233~297年)の撰、後漢書は范曄(398~445年)の撰、宋書は徐爰(394~475年)の撰、隋書は魏徴(580~643年)らの撰という。
なお、宋書には、倭国の五王による中国への朝貢に関する簡潔な記事はあるが、記事はそれだけで、倭国に関する記述は全くなく、ましてや倭国の都や邪馬台国に関する記述は何もない。宋書は、邪馬台国そのものについては、全く触れていない。「倭国伝~中国正史に描かれた日本~」(全訳注、講談社学術文庫、後出)によれば、宋書は「速成ゆえの無味乾燥との評はあるが、日本については倭の五王の頃、朝鮮三国と倭国の外交的かけひきを知る絶好の資料」としているが、しかし、それ以上のものではない、ということだ。
そこで、次の隋書の著者は、最初に邪馬台国と記した魏志を、事実と異なる記述をした元凶であるとして、その記事を修正し、邪馬台国の存在を否定したのだ。この時点で、すでに邪馬台国は架空の存在になっていた。これにより、魏志倭人伝と後漢書、これら二つの史書に書かれた邪馬台国という記述を、削除していることになる。そこには、たとえ東方の小国に関する記事といえども、後世に残る正史の誤りを放置することはできないという、歴史家としての矜持があったのではないか。そして、さらに後世の史家たちは、それを容認しているのである。彼らは、倭国についてはしきりに、しかも邪馬台国を否定するかのように、実に執念深く言及するが、邪馬台国については決して語らず、徹底的に無視している。
彼ら歴史家にとって、邪馬台国は存在しなかったのだ。
中国の後の正史が、卑弥呼が女王であったとする邪馬台国について、その戸数、人口、政治体制、経済、社会、そして、その後の歴史についても、一切触れることがないのは、ここに理由があったのだ。
以上のことは、「都」という漢字の意味について、辞書にあたることによっても確認できた。いずれも、最初に名詞としての意味を示し、次に動詞としての意味を示している。
三省堂 漢辞海:
二⦅動⦆都を建てる。都と定める。{みやこス}例 都南鄭 なんていニみやこス 訳 南鄭に都を定めた(史-高祖伝)
学研 漢和大字典:
②⦅動⦆みやこする(みやこす)みやこをきめて国の中心の町とする。「都洛陽=洛陽に都す」
どちらも、最初に名詞としての意味が首都であることを説明し、二番目には動詞としての使い方についての説明をしている。これらによれば、「女王之所都(女王の都する所なり)」というのは、「女王が都と定めている場所である」ということを意味しているのだ。従って、ここには、当然、国名ではなく、都の地名が来なければならない。
ここで、倭国の構造について、改めて考えてみたい。
- 魏志倭人伝では、卑弥呼の都は邪馬台国にあるとしている
- しかし、倭人伝では、「女王の都とする所」としているのであって、そこには、国名ではなく、都の地名が示されるべきである。文章が首尾一貫していない。地名を書くべきところに国名を書いているのは、決定的な間違い
- ここで邪馬台国について言及するのであれば、都であるとする邪馬台国について、その戸数などを含め、詳細に語るべきであるが、何も語っていない
- しかも、倭人については語っているものの、邪馬台人については、何も語っていない
- 倭国は、伊都国などの多くの国(=小国)により構成されている
- それぞれの小国には王がいる
- 卑弥呼は、一女子から倭国の女王となった。従って、卑弥呼は小国を持たない
- 倭人伝は、通過するそれぞれの小国について、戸数などを示している
結局、邪馬台国は、なかったのだ。
こうして、邪馬台国探求の旅は、予想外の展開となって、一応の帰結を見たことになる。思えば、古田氏による邪馬台国三部作に出会ってから現在まで、実に有意義で楽しい旅であった。
邪馬台国についてさまざまに考察してきたが、最終的にこのような結果に至るということは、全く想像できなかった、というのが実感である。
- 歴代の中国正史にみる「倭国」、そして「日本」
ここからは、中国歴代の正史に記録された日本について、みていきたい。参照したのは、「倭国伝~中国正史に描かれた日本~」(全訳注、藤堂明保・竹田晃・影山輝國、講談社学術文庫)である(下線は殿岡)。
ここで、注意すべき重要な点がある。日本に関しては、それぞれの史書はすべて、原則としてそれ以前の各時代の史書を参照し、時にはそれらの記事内容に言及し、場合によっては正確ではない記述に注意を喚起しながら、それらを前提として、一貫性を確保しながら記述されているということである。中国の史書の内容、そして歴史認識は、終始一貫しているのである。
○後漢書
「倭」
倭は、韓の東南大海の中に在り、山島に依りて居を為り、凡そ百余国あり。
・・・使駅の漢に通ずる者、三十許(ばかり)の国ありて、国ごとに皆王と称し、世世統を伝う。其の大倭王は邪馬台国に居す。
楽浪郡の徼(きょう)は、其の国を去ること万二千里にして、其の西北界の、拘邪韓国を去ること七千余里なり。
建武中元二年、倭の奴国、貢を奉げて朝貢す。・・・倭国の極南界なり。光武は賜うに印綬を以ってす。
安帝の永初元年、倭国王の師升等、・・・願いて見えんことを請う。
桓・霊の間、倭国大いに乱れ、・・・一女子あり。名を卑弥呼と曰い、・・・共に立てて王と為す。
女王国より東のかた海を度(わた)ること千余里にして拘奴国に至る。皆倭種と雖(いえど)も、女王に属せず。女王国より南のかた四千余里にして朱儒国に至る。・・・朱儒より東南のかた船を行(や)ること一年にして、裸国、黒齒国に至る。、使駅の伝うる所、此に極まる。
◎拘邪韓国は邪馬台国の西北界にある。また、倭の奴国は、「倭国の極南界」にあるとしている。楽浪郡から邪馬台国まで1万2,000里、拘邪韓国までは7,000余里である。
○三国志 魏書
「倭人」
倭人は帯方(郡)の東南、大海の中に在り、山島に依りて国邑を為る。旧(もと)百余国あり。漢の時に朝見する者有り。今、使訳の通ずる所三十国なり。
郡より倭に至るには、・・・韓国を歴て・・・其の北岸狗邪韓国に至る。・・・始めて一つの海を度り、・・・対馬国に至る。・・・
又南して一つの海を渡る。・・・一大国に至る。・・・
又一つの海を渡り、・・・末慮国に至る。・・・
・・・伊都国に到る。・・・
・・・奴国に至る。・・・
・・・不弥国に至る。・・・
・・・投馬国に至る。・・・
南して邪馬壱国に至る。女王の都する所なり、・・・
郡より女王国に至るまで、万二千余里なり。
その国、本亦た男子を以って王と為す。・・・乃ち共に一女子を立てて王と為す。名付けて卑弥呼と曰う。・・・
景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わして郡に詣らしめ、、天子に詣りて朝献せんことを求む。・・・詔書ありて・・・親魏倭王と為し、金印・紫綬を・・・銀印・青綬を・・・銅鏡百枚・・・
卑弥呼以に死し、・・・更に相誅殺す。・・・復た卑弥呼の宗女壱与、年十三なるものを立てて王と為す。国中遂に定まる。・・・
○宋書
「倭国」
倭国は高驪の東南の大海中に在り、世貢職を修む。高祖の永初二年、詔して曰く、「倭の讃は、万里貢を修む、・・・
讃死して弟の珍立つ。・・・
二十年、倭国王の済、使いを遣わして奉献す。・・・
済死す。世子の興、使いを遣わして奉献せしむ。・・・
興死す、弟の武立つ。
詔して武を・・・安東大将軍・倭王に除す。
○隋書
「倭国」
倭国は、百済・新羅の東南、水陸三千里に在り。大海の中に於いて、山島に依りて居る。
魏の時、中国に訳通す。・・・邪靡堆(やまと)に都す。即ち「魏志」に謂う所の邪馬臺なる者也。
女子あり、名は卑弥呼、能く鬼道を以って衆を惑わす。・・・共に立てて王と為す。・・・
・・・魏自り斉・梁に至るまで、代中国と相通ず。
開皇二十年、倭王の姓は阿毎(あめ)、字(あざな)は多利思比孤(たりしひこ)、号して阿輩雞彌(あほけみ)というもの、使いを遣わして闕に詣らしむ。・・・使者言う、
「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。・・・
・・・仏法を敬し、百済より仏経を求め得て、始めて文字有り、・・・
阿蘇山有り。其の石故無くして火起こり、天に接する者あり、・・・
新羅・百済は、皆倭を以って大国にして、珍物多しと為し、並びに之を敬仰して、恒に、使いを通じて往来す。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云云」と。
・・・文林郎裴清を遣わして倭国に使いせしむ。百済を度り、・・・一支国に至り、又、竹斯国に至り、・・・
◎初めて阿蘇山に触れており、そこが九州であることを示している。
○旧唐書
「倭国」
倭国は、古(いにしえ)の倭の奴国也。京師を去ること一万四千里、新羅の東南、大海の中に在り。山島に依りて居(すまい)す。・・・
・・・其の王の姓は阿毎(あめ)氏、一大率を置き、諸国を検察せしむ。・・・
貞觀五年、使いを遣わして方物を献ぜしむ。・・・
◎倭国は、かつての倭の奴国であるとし、山島にあるとしている。記述には、卑弥呼の名は登場しない。
「日本」
日本国は、倭国の別種也。其の国、日の辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。或いは曰く、
「倭国自ら其の名の雅やかならざるを悪み、改めて日本と為す」と。
或いは云う、
「日本、旧くは小国なれども、倭国の地を併せたり」と
「其の国界は東西南北各数千里にして、西界・南界は咸(みな)大海に至り、東界・北界は大山有りて限りを為す。山外は即ち毛人の国なり」と。
◎倭国が日本と改名したのか、日本という別の国が倭国を併合したのか、わからない、としている。また、日本は山島ではなく、(おそらくは)本州にあり、としている。
主な登場人物:朝臣真人、朝臣仲満(なかまろ)、橘逸勢、仏僧の空海
○新唐書
「日本」
日本は、古(いにしえ)の倭の奴也。・・・新羅の東南に直(あた)りて海中に在り。島にして居す。・・・
其の王の姓は阿毎(あめ)氏、自ら言う、初主は天御中主(あめのみなかぬし)と号し、彥瀲(ひこなぎさ)に至るまで凡そ三十二世、皆尊(みこと)を以って号と為し、築紫城に居す。彥瀲の子、神武立ち、更めて天皇を以って号と為し、治を大和州に徒(うつ)す。
次は綏靖と曰い、次は安寧、・・・神功を以って王と為す。
次は応神・・・
咸享元年、使いを遣わして高麗を平らげしことを賀す。後稍(ようや)く夏の音を習い、倭の名を悪(にく)みて更(あらた)めて日本と号す。使者自ら言う、
「国、日の出ずる所に近ければ、以って号と為す」と。
或いは云う、
「日本は乃(すなわ)ち小国にして、倭の并(あわ)す所と為る。故に其の号を冒(おか)す」と。
◎ここでは、倭国についての具体的な記述はない。かつての倭の奴国が日本となった、としている。また、日本は山島ではなく、本州にありとし、神武天皇が都を九州の築紫から大和に移した、としている。
また、中国に来た使者が、次のように説明した。日本という小国があって、倭国に併合された。その際、倭国が、日本という国名を奪って、新たに日本という国名を名乗った。
○宋史
「日本国」
日本国は、本(もと)倭の奴国也。自ら以(おも)えらく、其の国は日出ずる所に近しと。故に日本を以って名と為す。或いは云う、其の旧名を悪んで之を改むる也と。
其の地の東西南北は各数千里、西界は海に至り、東北の隅は、隔つるに大山を以ってす。山外は即ち毛人国なり。
雍熙元年、日本国の僧奝然、・・・本国職員令、王の年代紀各一卷を献ず。奝然、・・・姓は藤原氏、・・・以って対(こた)えて云う。
「・・・東の奥州に黄金を産し、西の別島に白銀を出だし、・・・国王は、王を以って姓と為し、伝襲して今の王に至るまで六十四世、文武僚吏皆世官なり」と。
其の年代紀の記す所に云う、初めの主は天御中主(あめのみなかぬし)と号す。次は・・・次は彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)、凡そ二十三世、並びに築紫日向宮(つくしひゅうがのみや)に都す。
彦瀲の第四子は神武天皇と号し、築紫宮自り大和州橿原宮(やまとしゅうかしはらのみや)に入居す。
・・・次は用明天皇にして、子有りて聖德太子と曰う、・・・隋の開皇中に当たり、使いを遣わし、海に泛(うか)んで中国に至り、法華經を求めしむ。
・・・次は守平(もりひら)天皇、即ち今の王也。凡そ六十四世なり。
畿內に山城・大和・河內・和泉・摂津の凡そ五州有りて、・・・
東山道に・・・上野・下野・陸奧・出羽の凡そ八州有りて、・・・
西海道に筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩の凡そ九州有りて、・・・
按(あん)ずるに隋の開皇二十年、倭王の姓は阿每(あめ)、名は自多利思比孤(たりしひこ)、使いを遣わし書を致す。
太宗、奝然を召見し、・・・其の国王、一姓伝継にして、臣下皆世官なりと聞き、因りて歎息して宰相に謂いて曰く、
「此れ島夷耳(のみ)、乃ち世祚遐久にして、其の臣も亦た繼襲して絕えず。此れ蓋し古の道也。中国は唐の季の乱自り、宇県分裂し、・・・大臣の後をして祿位を世襲せしめんとするなり、此れ朕の心なり」と。
◎東海の島に住む野蛮人でしかないのに、王も臣下も最初から世襲で続いているという。翻ってこの中国では唐の末期から国内は分裂し、と皇帝が嘆いている。
○元史
「日本」
日本国は東海の東に在り。古(いにしえ)には倭の奴国と称す。或は云う、其の旧名を惡(にく)み、故に名を日本に改む、と。其の国、日の出ずる所に近きを以って也。
其の土疆の至る所と国王の世系及び物產風俗は、「宋史」の本伝に見ゆ。・・・
○明史
「日本」
日本は、古(いにしえ)の倭の奴国なり。唐の咸亨の初め、日本に改む。東海の日の出ずるところに近きを以って名づくる也。
地は海に環(とりま)かれ、惟だ東北のみ大山に限らる。五畿、七道、三島有り、・・・其の小国は數十にして、皆焉(これ)に服属す。・・・
国主は世(よよ)王を以って姓と為し、群臣も亦た世官なり。宋以前には、皆中国に通じ、朝貢絕えず、事は前史に具はる。惟だ元の世祖は、数(しばしば)使いの趙良弼を遣わし、之を招けども至らず。乃ち忻都・範文虎等に命じて、舟師十万を帥(ひき)いて、之を征せしめしも、五竜山に至りて暴風に遭い、軍尽く沒す。後、屢(しばしば)招けども至らず、元の世を終えるまで、未だ相通ぜざる也。
明興りて、高皇帝即位し、・・・諸豪亡命し、往往(しばしば)島人を糾して山東浜海の州県に入寇す。
洪武二年三月、帝、詰(なじ)るに入寇の故を以って謂う、
「宜しく朝すべくんば則ち來庭せよ,しからずんば則ち兵を修めて自ら固めよ。・・・」
日本王良懷(りょうかい、後醍醐天皇の皇子懐良親王)命を奉ぜず、復た山東を寇し、・・・
三年三月、・・・諭すに中国の威德を以ってし、詔書に其の不臣を責むる語あり。良懷曰く、
「吾が国は扶桑の東に処ると雖も、未だ嘗て中国を慕わずんばあらず。惟だ蒙古は我と等しき夷(えびす)なるに、乃ち我を臣妾にせんと欲す。我が先王、服せず。・・・水軍十万海岸に列せり。天の靈を以って、雷霆波濤(らいていはとう)、一時に軍、尽く覆える。・・・」と。
帝、表を得て慍(いか)ること甚しきも、終に蒙古の轍に鑑み、兵を加えざる也。[日本に武力を発動しなかった]
日本には故(もと)、王有り、其の下に関白と称する者ありて最も尊し。時に山城州の渠(かしら)信長を以って之と為す。・・・自ら言う、平(たいらの)秀吉、薩摩州の人の奴為りと。・・・遂に摂津の鎮守大将と為る。
初め、秀吉、・・・諸鎮の兵を徴し、中国を犯さんと欲す。・・・
之を久しうして、秀吉死し、諸(もろもろ)の倭、帆を揚げて尽く帰り、朝鮮の患(うれい)亦た平らぐ。・・・